小此木忠七郎
名刀レスポンシブ1
小此木忠七郎(おこのぎちゅうしちろう)
考古学者
号 混沌庵
- 刀剣研究家として高名。
生涯
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小此木家は、もと奥州二本松藩の家臣。父は小此木閑雅。
- 兄は小此木信六郎。
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仙台の宮城女学校で教師となる。この頃、宮城の東北学院院長押川方義から洗礼を受けている。
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のち東京小石川丸山に住し、明治女学校の教師となっている。島崎藤村や北村透谷も同僚教師となっており、交流があった。後年、島崎に東北学院(現、学校法人東北学院)の教職(作文教師)を勧めたことが記録に残る。
この仙台時代に藤村が著したのが「若菜集」であり、その後「落梅集」などを発表し明治浪漫主義の先鞭として文壇デビューを果たしている。 -
兄の影響を受け、日本刀の世界にのめり込んだ。
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明治30年(1897年)に古社寺保存法が施行されるが、当初刀剣については拵えが評価対象となっていた。その後明治42年(1909年)ごろから刀身の方に重点が移ると、議事録として文章だけでは伝わらないため絵に描いて残すということになった。小此木は絵心があったためこれを担当し、網屋(小倉惣右衛門)がその助手を務めたという。
当時は刀身を綺麗に撮影する技術が確立していなかった。 -
杉山茂丸が立ち上げた築地刀剣会にも参加している。
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書籍では、「日本刀講座」(雄山閣、1934)で一部執筆している他、「古代建築 . 刀劍」(雄山閣、1930)でも伊東忠太との共著となっている。
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その他、福島県の文化財審議委員にもなっている。
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昭和14年(1939年)10月に74歳で没。
大包平の水拓
- 「薫山刀話」(本間順治著)に、この小此木忠七郎氏が大包平の水拓を取る話が出ている。
あれも非常にやかましいもので、だれにも見せないという刀です。ところがあれを私より先に見て水拓までとった人がいるのです。しかも刃文に墨をぬり、その上に画仙紙をはけでぬらし、そこに現れた刃文のままに墨で描くという押形までとったのです。それがいまは故人となった小此木忠七郎先生ですよ。(略)池田家へ行って、大包平を見たがっている人が大勢いるが、こういうものはめったに見せちゃいけません、だから私が押形をとって、これをみんなに見せます。そうすれば本物を見せなくてもいいことになるという談判をして、水拓をとってきたらしいんですよ。