二筋樋貞宗
名刀レスポンシブ1
二筋樋貞宗(ふたすじひさだむね)
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享保名物帳所載
二筋樋
大阪貞宗 長貳尺三寸壹分半 代金五百枚 松平越後守殿
表裏二筋樋、磨上、忠表に梵字、棒樋、裏梵字、倶利伽羅、大阪御物、此作刀の上々也 -
大阪御物は太閤所藏の名刀也、本阿彌光徳が冩したる押形あり。
此刀いま小田原大久保子爵の家にありと云ふ、一説に大久保相模守が京都所司代の時、一年禁裏炎上の事あり、相模守兵庫鎖りの太刀を佩きて御所を警衛したる由、甲子夜話にあり、其兵庫鎖の太刀は卽ち此貞宗なりと云ふなり。京都所司代を務めた大久保姓というと、大久保忠真のみとなる。大久保忠真は小田原藩7代藩主。しかし大久保忠真は”相模守”ではなく、出羽守を振り出しに、安芸守を経て加賀守となっているため、これは単純に小田原領との勘違いかと思われる。なお京都所司代の在任期間は文化12年(1815年)4月16日~文政元年(1818年)8月2日までとなっている。 -
真の棟、佩き表の中心に梵字と草の剣巻き竜。裏の中心に梵字と棒樋。
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鎺下から上には表裏とも二筋樋。鋩子も浅く灣れ込み、小さな地蔵風になり返りはやや深い。
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中心は大磨上無銘、目釘孔2個。中心先は切り。
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大村加卜が絶賛している。
由来
- 二筋樋があることからの号。
- また豊臣秀吉所蔵から「大坂貞宗」とも。「二筋樋大坂貞宗」
彼二筋樋貞宗又ノ名ハ大坂貞宗ト稱シ則秀吉公御物ノ由名物帳ニモ載セ有之候、サレバ同作數本寶庫ニ納リ有之内ニモ其作ノ絶品タル故自然ニ大坂貞宗ト稱セシナルベシ
来歴
秀吉
結城秀康
松平忠直
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子の松平忠直に伝わる。※読点を補った
大阪落城後、公伏見御館に被成御座候處、二條御城より被爲召早速御上京御登城被成候處、兩公御前近被爲召上意此度大阪之城乗取之儀、其誉天下に誰か可並肩哉、御感狀も可被下候得共、御門葉故不被及其儀候、御當家御代々其方子々孫々迄逆心之外御如在不可有候、御恩賞之儀ハ追て可被仰出候、第一其方働を以、天下平均御治候條先御手印として初花御茶入二筋樋貞宗御刀御拜領、秀忠公上意唯今上意之通、其方働を以早速天下御治候事、御滿悦被思召候由にて落雁御掛物(牧溪筆)御拜領
(一滴集抜抄) -
「本阿弥光瑳名物刀記」でも越前宰相殿所持となっている。
黒 大坂貞宗 ヒ 磨上二尺三寸二分
松平宣富
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享保名物帳では、結城秀康の曾孫である作州津山藩主松平宣富(従四位下、越後守、左近衛権少将)の名前で所載。
結城秀康─┬松平忠直──松平光長━┯━松平宣富(松平直矩の三男)
├松平忠昌 │
├松平直政 │
├松平直基──松平直矩─┘
└松平直良 -
本阿弥家伝名物帳
二筋樋貞宗 松平加賀守 長二尺三寸一分半 代金五百枚
小田原藩大久保家
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「小田原の刀剣」にも載る。
無銘 長さ七〇・三糎(二尺三寸二分)
一名大坂貞宗とも称し、豊臣秀吉の所蔵であった。刀身の表裏に二筋樋があるのでこの名がある。大磨上無銘で二筋樋の下には梵字が彫られているが、現在では茎の真中に位置しているため柄をはめた状態では見ることはできない。作風は板目肌地沸つき地景を表わし、刃文はのたれに互の目を交え沸よくつく。二代将軍秀忠から大坂夏の陣の功により松平忠直が拝領したもので、「名物帳」には松平越後守殿となっている。いつ大久保家に入ったか不詳であるが、現在は重要文化財として個人の所有である。 -
※詳細は下記異説を参照のこと
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戦後に同家を出る。
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昭和28年(1953年)11月14日に重要文化財指定を受ける。
文化財保護委員会告示第二号
未指定物件より指定
台帳・指定書番号 工一六七八
指定当時所有者 兵庫・谷崎義光 -
昭和55年(1980年)の「国宝・重要文化財総合目録」では、寺田小四郎氏蔵(谷崎義光旧蔵)。※昭和43年(1968年)時点で寺田氏蔵。
異説
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津山藩の書物によれば、いつごろかに同家を出ていたのか、津山藩5代藩主・松平康哉(顕徳院)の時に、これを「大久保殿方」より取り戻すべく運動していたと書かれる。
顕徳院様深キ思召ニテ御取戻シ之儀、大久保殿方ヘ御内々ニテ御懸合有之候處、金貳千兩御出シ無之候テハ不相濟候由、餘リ大金ノ事ニ付、先ヅ此義御止メ被成候旨ニ御座候、
松平康哉 (まつだいら やすちか)
津山藩5代藩主。父・松平長孝の死により宝暦12年(1762年)に5代藩主となる。父の藩政改革を受け継ぎ、同時代の名君と言われた上杉治憲や細川重賢らに倣って人材登用を行い藩政に当たらせ成功するも、天明3年(1783年)に天明の大飢饉の米価高騰により領内では打ちこわしも発生した。寛政6年(1794年)8月に43歳で死去。 -
しかし金額面で折り合わず(金2千両)断念するも、諦めがつかず似た貞宗を探させたという話が載っている。しかもこの話には続きがあり、子である6代藩主・松平康乂(厳恭院)の時に城代の黒田要人が鏨定(選定?)した上でようやく相応の貞宗在銘品を入手し、亡き顕徳院様の御意に叶ったと喜んだのだという。
松平康乂 (まつだいら やすはる)
津山藩6代藩主。父・康哉の次男として誕生し、寛政6年(1794年)に父の死により6代藩主となる。しかし文化2年(1805年)には20歳で死去した。跡を弟・斉孝が継いでいる。- なお津山藩は、初代藩主松平宣富の長男で2代藩主・松平浅五郎が11歳で死去したため急遽、従弟の又三郎(初代宣富の弟で、白河新田藩主・松平知清の三男)を跡継ぎとして改易を逃れた。これが3代藩主長煕である。
- さらに長煕も16歳で死去したため、今度は出雲広瀬藩3代藩主・松平近朝の三男を養子として継がせている(※近朝は松平直政の三男)。これが4代藩主松平長孝である。この長孝の子が「顕徳院」こと松平康哉で、その子が松平康乂となる。
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※現在判明している範囲では大久保家(そもそもどの大久保かも不明だが、詳註刀剣名物帳では小田原藩大久保家とする)に渡ったという来歴はわかっていない。しかしここまで執念深く似た刀を探したというのであれば、大久保家に渡ったという話も或いは本当なのかもしれない。仮にこの説に従えば、享保名物帳の頃までは津山藩にあったが、その後5代藩主の頃までに大久保家に渡ったということに成る。
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なお詳註刀剣名物帳によれば、少なくとも文化・文政ごろから子爵時代まで小田原の大久保家にあったということになる。
大久保家の子爵は、小田原藩9代藩主大久保忠礼が華族令で子爵となり、その長男・忠一、その長男・忠言が襲爵している。
二筋樋(ふたすじひ / にすじひ)
- 同じ太さの樋を二本、刀身の上部から棟区近辺まで掻き通したものを二筋樋と称する。
- 刀身に施された樋(血流し)は、刀身の重量を軽減し曲がりにくくすることで構造上の強度を高める為だけでなく、信仰の対象を表現したものとしても重要な意味を持っており、特に二筋樋は護摩箸(ごまはし、不動明王の化身)を意図する。