名刀幻想辞典

児手柏

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児手柏(このてがしわ)

小太刀
包永作
天正二年三月十三日/兵部大輔藤孝磨上之異名号児手柏
二尺二寸八分
徳川ミュージアム所蔵

  • 大和手掻派の刀工、初代包永(手掻包永)の作

  • 表裏で刃紋が違い、表の刃文は大乱刃(身に着けたとき外側)、裏は中直刃(同内側)であった。

  • 罹災美術品目録所載

    包永刀號児手柏 在銘
    中心ニ兵部大輔藤孝磨上之異名號児手柏天正二年三月十三日ト彫付有之
    長二尺三寸 鎺元一寸 横手下七分 厚二分四厘 反七分
    有事故而神祖授與之
    傳云、細川幽斎所蔵、刀之左右鍛磨之光彩不同、猶柏葉之向背色異、故名之曰児手柏、幽斎毎戦帯之、必勝、故献之神祖、神祖関原之役佩之、悉平賊徒

  • 目釘孔3個。なかご先に「包永」二字銘。

由来

来歴

足利家→細川幽斎

  • 室町幕府第12代将軍足利義晴から細川藤孝(幽斉)が拝領した。

    • 大和奈良坂にあったものを幽斎が入手したとも。
      足利義晴は、在職永正18年(1521年)~天文15年(1546年)。嫡男菊童​​丸を元服させて「義藤」(後の13代将軍義輝)と名乗らせて将軍職を譲り、以後は大御所となって義藤の後見をしている。天文19年(1550年)近江穴太にて死去。
       一方の幽斎は天文3年(1534年)生まれ、天文9年(1540年)に義晴の命により細川元常の養子となり、さらに天文15年(1546年)に足利義藤の偏諱を受け「藤孝」を名乗ったという。
  • 元亀二年(1571年)、藤孝は大和多聞山城を攻め、奈良興福寺の僧荒三位というものと立ちあったという。この時組み伏せた上で首をとったのだが、義晴下賜の刀の長さを扱いかね閉口したという。

  • このため、藤孝はこれを4寸ほど短く磨直させた上、表裏で刃紋が違うことから万葉集の歌にちなみ「児手柏」と改名し、「兵部大輔藤孝磨上之異名号児手柏 天正二年三月十三日」と刻ませた。この時「包永」の銘は残った。※天正2年は1574年

  • 「大日本刀剣史」では、一時豊臣家にあったとするが根拠は不明。

    元大坂御物の一で、豊太閤の蔵刀を記した巻物の中にあるから、細川幽斎が献上したものか、又一説には、徳川家康細川幽斎に所望して求めたものとも云はれ、この間の逕路がよくは判明しない。

細川興元

  • のち幽斎次男の細川興元へと受け継がれた。

    細川興元は幽斎の次男(細川忠興の同母弟)。永禄9年(1566年)生まれ。子がなかったため、文禄3年(1594年)に長兄忠興の次男である細川興秋を養子に迎える。秀吉没後は徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いや、その前哨戦である岐阜城攻め、その後の福知山城攻めにおいても細川隊の先鋒として奮戦した。戦後、忠興が豊前へ国替になるとそれに従い小倉城代を勤める。しかし慶長6年(1601年)12月に長兄の忠興と不仲になり、出奔。父幽斎を頼って京都の小川屋敷で隠棲した。のち秀忠に拾い出され下野国芳賀郡茂木1万石の大名になり、大坂の役にも出陣し手柄を上げる。その後も加増され、元和2年(1616年)には常陸谷田部藩1万6千石の初代藩主となった。
  • 慶長13年(1608年)春、興元は駿府において徳川家康の仲介で長兄の細川忠興と和解しており、この時に仲介の御礼として徳川家康に本刀を献上し、家康は500貫を与えたという。※以下の朝鮮征伐の逸話および関ケ原で指した話と矛盾する。

徳川家康

  • 家康は、文禄元年(1592年)の朝鮮征伐の際にも本刀を所持しているという。これが事実であれば、家康に渡った時期はさらに遡ることになる。

    又児手柏ノ事 文禄元壬辰年六月 朝鮮ママノ時 東照神君ノ御中間ト 前田利家ノ家人ト 清水汲ノ論ニテ 喧嘩起ントスルトキ 神君ハ御涼所ノ亭ヘ御上リ 児手柏ト云御腰物ヲ御指シ 御覧アルト 武辺物語ニ出ス 又此御刀 後水戸家ヘ御譲リアリト見ユ

  • 慶長5年(1600年)、家康はこの「児手柏」を関ヶ原の戦いでも差している。

水戸徳川家

  • のち大御所となっていた家康から徳川頼房へと伝わる。

  • 一説には秀忠が何度も所望するが下されず、徳川頼房の養母となっていたお梶(英勝院)がねだりようやく頼房に譲ったとも、またお梶が盗みだして水戸頼房に与えたとも伝わる。

    後者の説によれば、「兄たち(2代将軍秀忠や紀州頼宣・尾州義直の2人)もかねてより望んでおり、そう簡単にはやれぬ。紛失したことにすれば致し方無いということになろう」ということで、お梶が盗みだしたという。
  • 水戸家では、いつ将軍家に取り戻されるかわからないため水戸に下るときも必ず携行したという。また刀だけが往復するときにも、道中は御先手頭一騎、與力同心二十五騎が鉄砲で守護したという。

  • 明治時代に今村長賀が押形をとっており、「図説刀剣名物帳」(雄山閣)所載。

  • 大正12年(1923年)9月に起こった関東大震災で焼失した。

  • 関東大震災で罹災し、長らく「現存しない」とされてきたが、2015年、焼身の状態で保管されていることが判明した。

    例えば昭和27年(1952年)の「刀剣美術」での名刀後日譚にも「大正の大震災の時、向島の水戸家で児手柏包永と云う大名刀が焼失したが、今度の戦災(※引用注:第二次大戦)であの有名な式部正宗が松平家の蔵の中で無残にも焼失してしまった。」と書かれている。
  • 文化遺産データベース:児手柏

    鎌倉時代/13世紀
    長90.7
    1
    〒310-0912 茨城県水戸市 見川1丁目1215-1
    1号箱・刀3
    公益財団法人徳川ミュージアム
    鎌倉時代の手掻派の刀工包永が制作。元々は細川藤孝が所持しており、後に徳川家康に献上され、家康は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で使用したと伝わる。大正12年(1923)の関東大震災で被災刀となった。

児の手柏

  • 細川幽斎が引いたのは次の歌である。

    奈良山乃 兒手柏之 兩面尓 左毛右毛 侫人之友
     右歌一首博士消奈行文大夫作之
    ならやまの このてがしわの ふたおもに かにもかくにも ねじけひとのとも
    (万葉集 巻16-3836)

    兒手柏トハ我兒ノ手ニ似タル柏ナリ。鷄冠樹ヲ蝦手カヘルデカエデ=楓)、蕨ヲ紫塵ノ嬾蕨人擧手ト(和漢朗詠集に)云ヘル類ナリ。第二十ニモ下総國防人カ歌ニ、千葉ノ野ノ兒手柏トヨメリ。六帖ニモ柏ノ歌トセリ。オホトチト云草ヲ云ナトハ用ヘカラヌ説ナリ。兩面ニトハ、柏ノ葉ノ風ニカヘリヤスキヲ、手ヲ打カヘスニヨセテ、侫人ノ口材アルニ任セテ善惡ノ筋ヲトホサス、トカク云ヒ成シテ人ヲマトハスニ喩ヘタルヘシ。落句ハネヂケヒトカトモト讀ヘシ。トモハトモカラナリ。末ニ至テシツヲノトモ、大夫之徒マスラヲノトモナトモヨメリ
    (契沖 万葉代匠記)

  • 奈良山の児の手柏の両面にかにもかくにも、侫人こびひととも
    ねじけ人は表裏どちらから見ても悪いという意味。
    作者の消奈行文せな の ゆきふみは、高句麗系渡来人である背奈福徳の子。奈良時代の貴族・歌人で、従五位下・大学助。消奈行文大夫(せなのぎょうもんのまへつきみ)の名で、『万葉集』に1首、『懐風藻』に五言詩を2首を残している。

コノテガシワ

  • また、植物学の分類上の「コノテガシワ」(側柏、学名:Platycladus orientalis (L.) Franco)は、同じヒノキ科ヒノキ属などでは明確な表裏の区別が認められるのに対して、枝葉の表裏の区別が無いのが特徴である。そのために「両面(ふたおもて)」とも呼ばれる。

    日本ではかしわといえばブナ目ブナ科の落葉樹で、柏餅かしわもちに使われることでわかるように葉は幅広い。一方中国ではヒノキやスギなどの針葉樹に対して「柏」の文字を使う。コノテガシワは中国原産で日本へ伝わったのが遅かったためか、ヒノキ属であるのに「柏」の字を使う。
  • つまり、包永作のこの刀が表裏で刃紋が異なるのと矛盾していることになる。

  • 一説には、古今集を主とした幽斎が万葉集には疎かったためといい、あるいはコノテガシワは中国原産で江戸時代に日本へ伝えられたとされ文献上でしか知らなかったという指摘もある。

  • しかし、古今伝授まで受け文化人としても当時最高峰の位置にあった幽斎がそのようなミスをするとも思えない。幽斎がどのような意図を持って包永作の刀に児手柏と名づけたのかは、今となっては謎である。

古乃弖加之波

  • なお万葉集に詠み込まれている万葉植物(約4500首のうち約1500首あまり)は対応和名に疑義のある植物も多いのだが、児手柏(古乃弖加之波)はその最たるものの一つとされており、古生物学的には奈良時代には存在していなかった(今まで出土していない)とされている。

  • しかし万葉集に歌われているのは事実なため、現在のコノテガシワ(学名:Platycladus orientalis (L.) Franco)とは異なる別の植物についていた名称の転用が起こったという説が支持されている。実際には万葉集で詠まれる「児手柏(古乃弖加之波)」は、現在でいうイワヒバ(巻柏)あるいはクロベ(黒檜)、シロダモ(白梻)などではないかと推定されており、いずれも葉の表裏の差が大きい。

    例えば万葉集での朝皃之花(朝顔)は、現在でいう桔梗のことだとされており、また萩はかつては草木類のハギ(メドハギやネコハギなど)も含んでいたとされるが、現在の植物分類では木本類だけをハギとする。
  • その後、江戸時代に入ってからコノテガシワは中国原産の生薬「側柏」として輸入され始めた。

    コノテガシワの枝葉は側柏葉(そくはくよう)、種子は側柏仁(そくはくじん)または柏子仁(はくしにん)と呼ばれる生薬となる。止血、止瀉作用があり、吐血、血尿、血便、内出血などの出血症状や下痢止めに用いられ、現在でも伝統的漢方処方に用いられることがある。
  • 文献では、元文2年(1737年)が初出とされる。

    側柏移植の事は駒場薬園記録に元文二年唐側柏御本丸より種子を賜ふ

    元文2年(1737年)は徳川吉宗の治世で、吉宗は当時多額の銀流出の要因となっていたオタネニンジン(高麗人参)の国産化を目指し、まず享保6年(1721年)に小石川の御薬園を拡張し、さらに翌享保7年(1722年)には駒場に御薬園を設けている。
     小石川御薬園は、もともと館林藩時代の綱吉が館林藩下屋敷として与えられた土地に造営した小石川御殿で、綱吉は将軍就任後にそこを薬園とした。それを拡張したのが吉宗ということに成る。
  • つまり細川幽斎が名付けた頃の児手柏(古乃弖加之波)は、現在の児手柏(Platycladus orientalis (L.) Franco)とは違っていた可能性が高いということである。

「此手柏」

  • 新刀の丹波守吉道、丹波守直道らの作刀に、「此手柏」と添銘のあるものが現存する。刃紋は表裏同じなので、万葉集の歌意通りということになる。

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