名刀幻想辞典

天十握剣

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天十握剣(あめのとつかのつるぎ)

日本三霊剣の一本
すべての剣の祖とされる
天十束剣

  • 凄まじい破壊力を秘め、使いこなせば一太刀で海を割る事も出来る。折れる事や刃毀れする事も無い。尚、この刀は意思を持っており、自ら持ち主を選ぶ。刀に気に入られた相手でなければ抜く事はおろか、持つ事すら出来ない。

  • "十握"と言うのは、柄だけで(十握り分=四本指の幅が十本分)約80cmあるという事である。当然ながら剣自体も信じがたい長さを誇る。

別名

  • 別名が非常に多い剣である。
    1. 天羽々斬あめのはばきり」(天の羽羽斫、天羽羽斬)
    2. 十握剣とつかのつるぎ」、「十拳剱」
    3. 蛇之麁正おろちのあらまさ」(大蛇の韓鋤)
    4. 天蠅斫之剣あめのはえきり」(天蝿石斤斬)
    5. 天之尾羽張あめのおはばり
    6. 蛇韓鋤之剣おろちからさびのつるぎ

伊奘諾命・素戔鳴尊

  • 最初の所有者は伊奘諾命イザナギ素戔鳴尊スサノオとされる。

イザナギ

  • 伊奘諾命イザナギと妻の伊邪那美イザナミが、最後の子供軻遇突智カグツチを産んだことが原因で秘所が焼けて死んでしまう。伊奘諾命イザナギは怒り、軻遇突智カグツチをこの天十握剣で斬り殺してしまう。

於是伊邪那岐命、拔所御佩之十拳劒 、斬其子迦具土神カグツチ之頸。爾著其御刀前之血、走就湯津石村、所成神名、石拆神、次根拆神、次石筒之男神。
爾著其御刀前之血 走就湯津石村 所成神名石拆神 次根拆神 次石筒之男神【三神】

  • 十束剣の前方についた血が岩に飛び散って生まれたのが、石拆いはさくの神、根拆ねさくの神、そして石筒之男いはつつのをの三神という。

次著御刀本血 亦走就湯津石村 所成神名甕速日神 次樋速日神 次建御雷之男神 亦名建布都神【布都二字以音下效此】 亦名豐布都神【三神】

  • さらに十束剣の根元についた血から生まれたのが、甕速日神ミカハヤヒ樋速日神ヒハヤヒ、そして建御雷之男神タケノミカヅチ建布都神タケノフツ)だという。

  • さらに、伊邪那美イザナミの遺体の各部位から、様々な神々が生まれる。そして、この「十拳劒」は「天之尾羽張アメノオハバリ」または「伊都之尾羽張イツノオハバリ」であるともいう。

    故 所斬之刀名謂天之尾羽張 亦名謂伊都之尾羽張 【伊都二字以音】

アマテラスとスサノオの誓約

  • イザナギがスサノオに対して海原の支配を命じたところ、スサノオはイザナミがいる根の国(黄泉の国)へ行きたいと泣き叫び、天地に甚大な被害を与えたため、スサノオを追放することを決める。
  • 仕方なくスサノオは姉の天照大神アマテラスオオミカミに会ってから黄泉の国へ行こうと決め、天照大神が治める高天原へ昇る。すると山川が響動し国土が皆震動したので、天照大神はスサノオが高天原を奪いに来たと思い武具を携えて彼を迎えた。
  • スサノオは天照大神の疑いを解くために、宇気比うけい(誓約)をしようと提案する。まず、天照大神が建速須佐之男命の持っている十拳剣を受け取って噛み砕くと、吹き出した息の霧から多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命が現れた。
  • 続いてスサノオが天照大神の「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」を受け取って噛み砕くと、吹き出した息の霧から正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命が現れた。
 古事記日本書紀
六段本文
日本書紀
六段一書
十拳剣多紀理毘売命タキリビメ田心姫タキリビメ十握劒トツカノツルギ
市寸島比売命イチキシマヒメ湍津姫タキツヒメ九握劒ココノツカノツルギ
多岐都比売命タキツヒメ市杵嶋姫イチキシマヒメ八握劒ヤツカノツルギ
八尺勾玉正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命マサカアカツカチハヤヒアメノオシホネ天忍穂耳命アメノオシホミミ正哉吾勝勝速日天忍骨尊マサカアカツカチハヤヒアメノオシホネ
天之菩卑能命アメノホヒ天穂日命アメノホヒ天津彦根命アメノホヒ
天津日子根命アマツヒコネ天津彦根命アマツヒコネ活津彦根命アマツヒコネ
活津日子根命イクツヒコネ活津彦根命イクツヒコネ天穂日命アメノホヒ
熊野久須毘命クマノクスビ熊野櫲樟日命クマノクスビ熊野忍蹈命クマノオシホミ
  • これにより、スサノオは「我が心清く明し。故れ、我が生める子は、手弱女を得つ。」と勝利を宣言する。
    他にも異名あり。ここでは省略する。

スサノオ

  • 素戔鳴尊スサノオは、この剣で「八岐大蛇ヤマタノオロチ」を輪切りにしたという。

  • そこから「天(尊称)羽々("大蛇"の意)斬」、つまり「天羽々斬」と称されるようになった。

  • この「天羽々斬」は、石上布都魂神社に祭られ崇神天皇の代に石上神宮に遷されたという。現在石上神宮では、「天羽々斬剣」とされる鉄刀が「布都御魂ふつしみたまのつるぎ布都御魂)」とともに本殿内陣に奉安され祭られている。これは明治11年(1878年)の石上神宮の社殿建造のための禁足地発掘の際に出土した、全長120cm位の片刃の刀である。

    石上神宮ではほかに義憲作「小狐丸」、「七支刀」などを所蔵する。

出雲の国譲り

  • スサノオの息子、大国主オオクニヌシ少名毘古那スクナビコナとともに国づくりをすすめ、葦原中国を完成させる。そこへ現れたのが高天原からの使者であり、建御雷之男神タケノミカヅチである。

  • 建御雷之男神たけのみかづちは、古事記では伊都之尾羽張イツノオハバリの子であり、日本書紀ではカグツチ殺しの際に生まれた甕速日神ミカハヤヒの子孫、または建御雷之男神タケノミカヅチそのものが生まれたとする。

  • 出雲の伊耶佐小浜イザサノオハマに降り立ったタケミカヅチは、十握の剣トツカノツルギを波の上に逆しまに突き立て、その切っ先の上に胡坐をかき、大国主に対して国譲りの談判をおこなう。

  • 大国主は息子たちに相談するが、結局は自分を祀ることを条件に国を譲ることになる。こうして造られたのが「天之御舎あめのみあらか天日栖宮あめのひすみのみや)」であり、現在の出雲大社である。

出雲大社

本殿

  • 国譲り伝説で描かれる出雲大社では、客神五柱は通常通り南面するが、主神である大国主大神は南面せず西を向いている。つまり参拝者は大国主大神の横顔に拝礼していることになる。※もちろん参拝者には大国主大神は見えていない。
  • また通常神社での参拝は「二礼二拍一礼」となっているが、出雲大社では「二礼四拍一礼」と、独特な参拝形式を取る。
    ┌───────────────┐
          宇豆柱      
     ┌─────┬─────┐ 
     御客座五神       
       ↓     御   
            ←神   
             座   
                 
          ┼─────┤ 
         心御柱     
                 
                 
                 
     └─────┴─┬─┬─┘ 
          宇豆柱 扉    
    └───────┬─────┬─┘
            ├─────┤
            ├─────┤
           ┌───────┐
                  
                  
           └───────┘
     
    西神饌所    楼門    東神饌所
     
     
    └───────八足門──────┘
     
          ┌────┐
           拝殿 
          └────┘
           大注連縄
    出雲大社の本殿の拝礼場所は右寄りに位置する。客神五柱はやや左手前方に位置しており、主神は正面の板壁の奥にある御内殿に西を向いて鎮座する。この西を向いている理由については諸説ある。御本殿 | 出雲大社

本殿の大きさ

  • また現在本殿は高さ8丈(1丈は3.03mで、約24m)あり、これでも破格の大きさではあるが、中古にはその高さは16丈(約48m)、上古にはなんと32丈(約96m)あったという。

  • 平安時代に源為憲によって作られた「口遊くちすさび」でも「雲太、和二、京三」と数え歌に歌われている。

    雲太。和二。京三。謂大屋誦。今案。雲太。謂出雲國城築明神ゝ殿。在出雲郡。和二。謂大和國東大寺大佛殿。在添上郡。京三。謂大極殿八省。

    雲太とは出雲太郎(出雲大社)、和二は大和次郎(東大寺大仏殿)、京三は京三郎(平安京大極殿)を指している。なお創建時の東大寺大仏殿は、幅29丈、奥行き17丈、高さは12丈6尺(約37m)あったという。
  • 江戸時代、本居宣長はこの説を怪しみながらも、出雲国造いずもこくそう千家せんげ家に伝わる造営の図なるものを「玉勝間たまかつま」に記している。

    出雲大社、神殿の高さ、上古のは三十二丈あり。中古には十六丈あり。今の世のは八丈也。古の時の図を、金輪の造営の図といひて、今も国造の家に伝へもたり、其図、左にしるすが如し。此図、千家国造の家なるを、写し取れり。心得ぬことのみ多かれど、皆ただ本のまゝ也、今世の御殿も、大かたの御構は、此図のごとくなりとぞ

  • ただし実際に16丈の高さの建物を建てるとなると、そこに上るための登り桟橋は一町(約109m)もの長さになると計算され、古代の建築技術では実現不可能とされていた。

  • しかし平成12年(2000年)、大社の境内地下から巨大な宇豆柱うづばしら(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)が発掘された。その構造は宣長の「玉勝間」に記された図面と同じであり、これにより中古には出雲大社本殿が16丈(約48m)あったという説が裏付けされることとなった。

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