狙公
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狙公(さるびき / そこう)
刀
銘 「退蛇之神刀/依弓馬之力不料所得狙公之刀 源季基」
刃長二尺余
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「南総里見八犬伝」に登場する架空の刀。
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安房滝田城主里見家の重宝。
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銘「退蛇之神刀(じゃがへしのかんだち)」
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刃長二尺余り。鎬地に「依弓馬之力不料所得公之刀 源季基」と切りつけてあったという。
皆共侶にこれを見るに、刀の長は二尺に過ぎたる、その表装は怎なりけん、鍔すら多く鏥朽たれば、鞆糸失て、𩋡破れたり。軈て拔放ちて内を相るに、刄は毫も鏥あらず、夏なほ寒き、稀世の名刀、小鍛冶が小烏、干将・莫耶が大阿・龍泉なりとても、是には優さじと思ふ可の、𨭚に十六言の記文あり。その文に、依弓馬之力不料所得狙公之刀源季基、と鑚著てありければ、いよゝ疑ふべくもあらず。
由来
- もとは猿牽きの朝暮七(ちょぼしち)が持っていたため。「狙公(そこう)/猿牽(さるひき)」とは、猿まわしのこと。朝暮七は「朝三暮四」をもじった名前。
来歴
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里見季基がまだ上野の小領主であったころに狩りに出ていると、松の大木の下で猿牽きの朝暮七が眠りこけていた。
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季基が樹上を見ると大蛇が上から狙っており、まず猿牽きの猿を一呑みした後、猿牽き(朝暮七)まで呑もうとした。その時朝暮七の腰の刀が突如抜け出し、大蛇に迫った。大蛇が驚いて首を引っ込めると刀は自然と鞘に収まった。
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そんなことを繰り返すのを見ていた里見季基は、猿牽きが危ないと見て弓で大蛇を射殺した。大蛇が樹上から落ちてきた音に目を覚ました朝暮七は、命を救ってもらったお礼に刀を贈るという。
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朝暮七を屋敷に連れて帰り刀のなかごを見ると、「退蛇之神刀」と銘が入っていた。喜んだ季基は朝暮七に金百両を与えて帰し、刀には見事な拵えを付け「狙公」と名付け常に帯びた。
季基朝臣に從ひまつりて、軈て御館へ参りしかば、季基随卽近習をもて、他が腰刀を拿寄て、拔放ちて見給ふに、退蛇之神刀といふ、五字の銘ありければ、こは疑ふべくもあらぬ、奇貨なりけりとて、卽便其刀の價として、金百兩を拿らせ給へば、朝暮七は呆るゝまでに、歡び望の外に出たる、一期の福徳この上なし、と受戴きつゝ稟すやう、小可猕猴を大蛇に呑れて、生活の便著あらずなりしを、慨しく思ひ候ひしに、然る東西なりとは知ざりける、刀の價に這棣棠色、百枝を賜るは、御恩に御恩を重られたる、おん慈悲にこそ候うなる。
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里見季基はのち下総結城城主となっていたが、嘉吉元年(1441年)に上杉氏に攻められ敗死する。
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親交のあった宝珠和尚が、季基の遺骨と「狙公」を秘かに隠し持っており、文明15年(1483年)、季基の追善供養の際に里見家の遺臣に返した。
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のちに犬塚信乃がこれを預かり、季基の嗣子・里見義実に渡す。
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季基の改葬が終わった時、里見義実はこれを嗣子・義成に譲っている。
當下義実主は、後方なる、刀架に置かれたる、狙公の名刀を拿抗て、義成主に宣ふやう。「大月像・小月像、大小の兩刀は、當家相傳の重寶なれども、小月像は富山にて、犬江親兵衛が大功の賞として、他に取せたりければ、兩刀の内中、一刀闕たり。しかるに先考(※亡父)御遺愛の、這狙公は小月像に、優ること遠かるべし。月と狙とは、水月猿猴、那に代るに這をもてせば、拿得がたきを拿得たる、遺刀に因あり、亦縁あり。表装は好みもあらん、和殿の随意左も右もして、身の衛にし給へかし。」と解示しつゝ遞與し給へば、義成主は遽しく、膝を找めつ受拿て、帯て歡びを稟し給ふ、口誼は看官猜すべし。
狙公(そこう)
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狙公は故事成語「朝三暮四」の逸話に登場する人物。
朝三暮四とは、1.目先の違いに囚われて実際には同じ結果であることに気づかないこと(猿の立場)。または、2.うまい言葉や方法により相手を騙すこと(狙公の立場)の意味。 -
「狙公橡を賦る。」
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むかし中国の宋に猿回しの狙公というものがいた。狙公は猿を深く愛しており多くの猿を養っていた。多くの猿を飼うために狙公は自分の食べ物を減らしてまで餌を与えていたが、とうとう貧乏になってしまい猿の餌を減らすことを考える。
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そこで狙公が猿に対して、「餌のトチの実を朝に三つ暮れ(夕方)に四つ与える」と言ったところ猿が怒り出したため、「では朝に四つ暮れに三つやる」と言い直したところ猿はみなひれ伏して喜んだという。
宋に狙公なる者有り。狙を愛し之を養ひて群を成す。能く狙の意を解し、狙も亦公の心を得たり。其の家口を損して、狙の欲を充たせり。
俄かにして匱し。将に其の食を限らんとし、衆狙の己に馴れざらんことを恐るる。 先づ之を誑きて曰く、若に芧を与ふるに、朝に三にして暮に四にせん、足るかと。衆狙皆起ちて怒る。俄かにして曰く、若に芧を与ふるに、朝に四にして暮に三にせん、足るかと。衆狙皆伏して喜ぶ。