伊達綱宗
名刀レスポンシブ1
伊達綱宗(だてつなむね)
仙台藩第3代藩主
従四位下、左近衛権少将、陸奥守
美作守
仙台正宗
生涯
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寛永17年(1640年)、2代藩主伊達忠宗の六男として生まれる。母は側室貝姫。伊達政宗の孫。
伊達綱宗の母である貝姫の実姉が櫛笥隆子であり、その櫛笥隆子は後西天皇の生母逢春門院という関係にある。つまり後西天皇と伊達綱宗はいとこ同士にあたる。ただし生母貝姫は寛永17年(1640年)8月に綱宗を産んだ後、寛永19年(1642年)2月に歿している。享年19。 -
綱宗は忠宗の六男であったが、兄光宗が初入部で体調を崩し正保2年(1645年)に19歳で早世したため、伊達家嫡子となる。
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万治元年(1658年)父である2代藩主伊達忠宗の死により、仙台藩主の家督を継ぎ3代藩主となる。この頃から一関藩の藩主伊達宗勝(※ 伊達政宗の10男。2代藩主忠宗の弟で、綱宗の叔父)と庶兄田村宗良(※ 上述。忠宗三男で綱宗の庶兄)が藩政を見るようになる。
小石川堀の工事
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藩主となって2年後の万治3年(1660年)2月、幕府より江戸城小石川堀(神田川濠)のさらえ工事を命じられる。
牛込から和泉橋までの間を浚渫することにより船の通行を企図したもの。 -
仙台藩ではこれに対して片倉小十郎景長、茂庭定元、後藤孫兵衛近康、真山元輔らを任命し、4000名弱の人足を配置して工事にあたった。
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若き藩主であった綱宗はこの工事督励のため毎日のように現場を訪れるが、その帰りに吉原に通ったという。
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ここに目をつけたのが綱宗の叔父伊達宗勝で、宗勝はかねてより野望を持っており、あわよくば仙台藩領の分割を狙っていた。
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宗勝は、親族にあたる岡山藩主池田光政(※ 父池田輝政の娘が伊達忠宗の正室。義理の叔父)、柳川藩主立花忠茂(※ 伊達忠宗の娘婿で綱宗の義兄)、宮津藩主京極高国(※ 祖父・政宗の娘婿で忠宗の義弟)と相談の上、老中酒井忠清に綱宗と仙台藩家老に注意するよう提訴した。
【伊達家系譜】 ※黄色は伊達騒動関係者 茂庭綱元 原田宗資 │ ├──原田宗輔(原田甲斐) 香の前 ┌津多 ├────┴亘理宗根 │ │ │亘理重宗─┬娘 〔涌谷伊達氏2代〕 │ └亘理定宗┬[弟]伊達宗重(伊達安芸) │ └伊達宗実 │勝女姫 │ │ │ ┌────岑姫 〔一関伊達氏〕 │ ├────┴────伊達宗勝(伊達兵部) │ │ ├──伊達宗興(小倉藩小笠原忠雄預り) │ │ ┌立花宗茂(柳川藩初代) │ │ │ │ └立花直次───┬立花種次──娘 姉小路公景四女(酒井忠清養女) │ │ │(筑後三池藩初代藩主) │ │ 松平忠輝 │ │ │ │ └立花忠茂(柳川藩主2代) 伊達政宗1 ┌五朗八姫 ├───立花鑑虎(柳川藩主3代) │ │ │ │ │ ├──┤池田輝政─┬池田光政 ┌鍋姫 │ 愛姫 │ └振姫 ├虎千代丸(早世) │ │ ├────┴伊達光宗(正保2年没) │ │ │ふさ ┌田村宗良〔はじめ鈴木重信養子、のち田村氏〕 │ │ │├───┴伊達宗規〔岩谷堂伊達氏3代〕 │ ├──────伊達忠宗2 │ └伊達宗綱 ├─────伊達綱宗3 │ │ ├─────伊達綱村4 │ 櫛笥隆致─┬貝姫 三沢初子 │ │ │ └櫛笥隆子 │ ├─────後西天皇111 │ 後水尾天皇108 │ ├────┬伊達秀宗【宇和島藩初代藩主】 新造の方 └伊達宗清〔吉岡伊達氏当主〕
隠居
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しかし綱宗の行動は止まらなかったため、7月9日に家臣と親族大名(池田光政・立花忠茂・京極高国)の連名で幕府に綱宗の隠居と、側室三沢初子が生んだ綱宗嫡子の亀千代(後の伊達綱村)の家督相続を願い出た。
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7月18日に幕府より綱宗は21歳で逼塞の幕命が下って強制隠居させられ、第4代仙台藩主にわずか2歳の伊達綱村が就任した。
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7月26日に綱宗は品川の品川屋敷に隠居、そこで50余年の余生を過ごし正徳元年(1711年)に死去した。
実際には有力外様大名である綱宗と後西天皇が従兄弟であることを警戒した幕府と、伊達宗勝の仙台藩領分割の野望が合致したことによる騒動とも見られている。この騒動はこれに留まらずのちに寛文事件を引き起こし、三大お家騒動と呼ばれる「伊達騒動」へ発展する。なお叔父の伊達宗勝は、この事件後となる寛文4年(1664年)に嫡子宗興の正室として、訴えでた相手である老中酒井忠清の養女(姉小路公景の四女)を迎えている。また酒井忠清は寛文6年(1666年)に大老に就任する。
逸話
文化人
- 綱宗は文化人政宗の血を濃く受け継いだのか、風流人であり諸芸に通じた。隠居料として10万石を与えられ、その資金を元に画は狩野探幽に学び、和歌、書、蒔絵、刀剣などに優れた作品を残している。
刀工
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刀工としても作刀を残している。実際には刀鍛冶を屋敷に呼びつけて相槌させたものではあるが、綱宗作の刀は「仙台正宗」と呼ばれている。
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銘には隠し銘として「絃唯白色剛務刀有室不至視不見」を用いたものがある。これは、白色(玄くろがない)の絃で「糸」、刀がない剛(部首は"刀"りっとう)で「岡」と読み、"糸"と"岡"で「綱」を表す。さらに室有って至らずで「ウ冠」、視不見で「示」を残すことで、"ウ冠"に"示"で「宗」となる。つまりは諱の「綱宗」である。
- 谷風所持
- 銘「於武刕品川仙台国司綱宗/拝領 谷風梶之助」長二尺五寸、表裏棒樋。第4代横綱二代谷風梶之助の所持。横綱谷風は、江戸本場所で優勝20回以上・50連勝以上・通算勝率9割以上を達成した大横綱で、天下無双の大横綱にふさわしい実績から、四股名「谷風」は止め名になっている。仙台伊達藩お抱えの力士で、この刀は綱宗が打ったものが片倉家に伝わり、それを谷風が拝領したものとされる。
刀剣
- 従兄弟である後西天皇より、「陸奥新藤五」を贈られている。
高尾との恋
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吉原に通った綱宗のお目当ては、吉原三浦屋の高尾太夫であった。高尾太夫は吉野太夫・夕霧太夫と共に三名妓とされ、三浦屋で代々名乗り継がれる大名跡であった。
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2代目高尾は、年号から万治高尾、綱宗との関係から仙台高尾・道哲高尾とも呼ばれる。
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一説に身請けを申し出た綱宗の意に背いたことから、万治元年(1659年)12月隅田川三叉の船中でつるし斬りにされたという。高尾の身請けを申し出た綱宗に対して、高尾は婉曲に断るため彼女の体重と同じだけの金を要求する。これを用意した綱宗であったが、高尾には先に島田重三郎という想い人がいたため、それも断ってしまう。怒った綱宗は三叉の船上において高尾の髪を掴んで吊り上げ、乳の下を刺したあと胴をなぎ払い、川へ流したという。
佳人ヲ贖ウ
佳人顰ス
太守瞋ル
妾ガ身ハ君ガ殺スニ任ス
妾ガ身ハ君ガ活スニ任ス
妾ガ身已ニ吾郎ノ在ル有リ
妾ガ心奪ウ不可ズ
螽髪手ニ在リ亂レテ絲ノ如シ
木蘭舟中娥眉ヲ斬ル
遺恨ハ不知深サ幾尺
三叉ノ水終古碧ナリ
(「三叉江」山田蠖堂) -
高尾の首は永代橋のあたりに流れ着き、人々がそれを祀って建てたのが高尾大明神(現高尾稲荷神社、中央区日本橋箱崎町)という。昭和53年(1978年)の再建時に旧社殿地下から頭蓋骨が発見されたために祀っている。
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ただしこの話には異説があり、西方寺(豊島区巣鴨、元は浅草日本堤)、永源寺(埼玉県坂戸市)、春慶寺(墨田区押上)に2代高尾の墓があり、それによれば万治年中の早くに亡くなったという。万治4年(1661年)4月25日に「寛文」へと改元しているため、2代目高尾が死んだのは万治3年(1660年)2月に小石川堀工事を命じられる「以前」ということになり、話が矛盾する。
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綱宗と高尾の恋は、三大騒動として世の中を騒がせた伊達騒動と合わせて浄瑠璃、歌舞伎「伊達騒動」、上方落語「高尾」、古典落語「反魂香」など様々な物語で語られることとなった。