本阿弥
名刀レスポンシブ1
本阿弥(ほんあみ / ほんなみ)
本阿弥は、刀剣の鑑定、研磨、浄拭(ぬぐい)を家業とする。
本阿弥三郎兵衛家
菅原姓を称し、家紋は「梅紋」を用いる
古くより「ほんなみ」と訛って発音する
本阿彌
本阿弥氏
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本阿弥氏は、もと足利将軍家の同朋衆の一人であり、刀剣の鑑定や研磨を担当していたという。
本阿彌妙本相州鎌倉ノ人。姓ハ菅原氏ハ松田。妙本以後爲ス本阿彌ト。其裔有清信ナル者剃髪號本光。自此以光ヲ爲ス字アサナト
(和漢三才図会) -
大正5年発行の「光悦(天)」光悦会著は、本姓は菅原氏(菅原氏流高辻家)、五条高長(菅原高長・高辻高長)の庶子であるとする。
本阿弥の始祖妙本、諱は長春、實は従二位五條高長老年の庶子なるも、高長嗣子長經の子秀長の弟と称す。日静上人(尊氏叔父)に帰依し薙髪して妙本阿彌佛といふ、後、子孫其上下の二字を省きて本阿彌氏を冒せり。
日静(にちじょう)、父は藤原北家の末裔上杉頼重、母は足利氏の娘と言われ、姉の上杉清子が征夷大将軍足利尊氏の生母にあたる。なお「古今鍛冶銘」では本阿弥の祖は順阿という同朋の従兄弟であったという。 -
はじめ同朋衆の習いで「妙本阿弥 仏」と名乗っていたが、いつ頃からか前後の文字を取り「本阿弥」と名乗る。
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初代妙本(長春)は足利尊氏に刀剣奉行として仕えた。
妙本足利尊氏に仕へて刀劍奉行となり、刀劍の鑑識に長ず。
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その後、二代本妙、三代妙大、四代妙秀、五代妙寿、六代本光、七代光心、八代光刹と続く。六代目の本光は、松田氏の出身で妙寿の婿養子となり本阿弥家を継いだ。
本妙、妙大、妙秀、妙寿、子孫相次ぐ。妙寿の門下に足利六世の将軍普廣院義教昵懇の士、松田右衛門三郎清信あり、鑑刀を好み其業にすぐれたり、妙寿子なかりしかば長女にめあはせて嗣子とす、これ六世本光にして本阿弥中興と称す、凡そ此時代より本阿弥家は刀剣鑑定、磨研、浄拭を以て其特有の家業となすに至れり
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九代光徳にいたり秀吉から刀剣鑑定所を免許される。
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古くより「ほんなみ」となまって発音する。特に本阿弥光悦、本阿弥光瑳の2代が書道・芸術分野において高名であり、「ほんなみ」とカナが振られて紹介されることが多い。
古くから通常、ホンナミと訛って発音する。
(日本刀大百科事典)
折紙台帳
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長らく刀剣鑑定を務めた本阿弥家には、「留帳」という折紙発行の記録台帳があり、他にも、「本阿弥空中斎秘伝書」、「本阿弥光心押形」、「光徳刀絵図」など、先祖の残した押形本など多数の資料が残されていた。※留帳は関東大震災のおり消失。
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その後享保4年(1719年)、江戸幕府八代将軍徳川吉宗から依頼を受けた本阿弥家十三代当主の光忠が、これらの中から健全なもの百六十八振り、消失したもの八十振り、合計二百四十八振りを選出し、それぞれに由来等を書き添えて同年十一月に幕府に提出したものが「享保名物帳」とされる。
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本阿弥家では、初代妙本の月命日である毎月三日に本家に集まり、合議の上折り紙(正真である証明書)を出す仕組みになっていたという。※このため本阿弥折紙は三日付けになっている。
系図
【本阿弥宗家】 初代妙本─2代本妙─3代妙大─4代妙壽─5代妙寿─6代本光─7代光心─8代光刹─9代光徳─10代光室 〔尾形家〕 尾形道伯 ┌尾形光琳 ├───宗伯──宗謙─┴尾形乾山 ┌法秀 多賀宗春──光二1 │ ┌日允 ├──┼光悦2━━光瑳3 │ ┌光傳5──光通6──光春7──光敬8──光隆9──光一 ┌妙秀 │ ├──┴光甫4 │ │ ├宗知 ┌妙山 ├──┼光山──光顕(加賀本阿弥家) │ │ │ ┌妙了 │ │ │ │ │ └光通 │ └妙光 │ │ 【宗家】 │ ├──┼光室10─┼光温11─┬光達─┬光常12─┬光忠13──光勇14──光純15──光久16 本阿弥光心7─┼光刹8─┬光徳9 ├光栄 │ │ │ │ (七代) │ │ └光益 └光的 └光珉 │ └光沢──光勢──四郎三郎 │ ├光味─┬光伯 │ │ ├光意 └光淳 └光琢 │ └光順──光祐──六郎三郎 │ │ ├光政──光寿─┬光音 ┌妙春 └光与 └光富 │ 茶屋清延─┬清次─┴道澄━━延宗(宗古) 四郎次郎│(道清) └長吉──良延 (新四郎)(長以)
本阿弥本家
本阿弥妙本
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本阿弥家初代
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本阿弥家の始祖とされ、足利尊氏に仕え代々将軍家の刀剣の諸事を司るようになったという。
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没年については、文和2年(1353年)、文安元年(1444年)4月3日とがある。
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後者であれば、当時室町幕府に松田姓のものが数人いたために、それらの松田姓から出たという指摘と合致する。この場合五条家出自を仮冒したことになる。事実本阿弥家では次男以下は松田姓を名乗ったとも言われる。
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当時御供衆に小笠原備前守というものがおり、どうやらこの小笠原氏から刀剣鑑定の術を習ったと見られる。
- 永享2年(1430年)の記事に「妙基本阿」なる人物が登場する。
卅日寅丙依妙基本阿相論事。奉行人傳仰旨。
野遠屋妙基與同本阿彌相論泉州境觀阿「彌」跡聖遠屋并所々家倉等事。妙基雖申子細。不帶一紙支證之上者。任去應永廿二年十二月十一日觀阿讓状。本阿彌領掌不可有相違之由。所被仰下也。仍下知如件。
永享二年十二月卅日肥前守
左衞門尉
- 永享2年(1430年)の記事に「妙基本阿」なる人物が登場する。
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墓は光悦寺。文和2年(1353年)。
妙本塔
同所。光悦父母塔の左に並ぶ、碑
表面に
文和二癸巳年
南無妙法蓮華経 本阿彌鼻祖當親院妙本日忠居士
四月三日
と刻す、本阿彌家の始祖、諱は長春、足利尊氏に仕へ、刀劔奉行たり、後蓬髪妙本と號し、文和二年沒す、妙本が碑、澁谷本國寺廟所法華寺に在り。
本阿弥本妙
- 本阿弥家二代当主
- 同朋名「本阿弥」
本阿弥妙大
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本阿弥家三代当主
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同朋名「寿阿弥」
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寛正4年(1463年)8月8日、将軍義政の生母である日野重子が逝去し、翌月9月18日に大赦が行われる。斯波義敏、畠山義就が赦免されているが、この時に寿阿弥も釈放され、父の本阿弥と共に御礼廻りをしたという。入牢の理由は不明だが、斉藤民部少輔と共犯という。
佐々木治部少輔御冤之事。以管領細川殿之状。以前披司露之。次齋藤民部并壽阿彌御免之事申之。與伊勢守被仰談而。可有御思案之由被仰出。仍於管領申此旨也。今晨御免之事。以勢州被仰出也。即治部少輔殿并民部共致出仕也。可被號勝智院之御寺。以何所可被定哉。思案而可注進之由。伊勢守申之。佐々木治部少輔方。齋藤民部。壽阿彌。其父本阿彌共來謝。而不勝灌喜也。(蔭凉軒日録)
寛正四年九月十八日。非常ノ大赦ヲコナハレ。罪科人數多免許セラルヽ。其人數ハ。齋剛藤民部少輔。御同朋壽阿彌。本阿彌。佐々木治部少輔。觀世座彌三郎。笛吹又六。日親坊等也。(長祿寛正記)
本阿弥妙秀
- 本阿弥家四代当主
- 永正2年(1505年)6月23日没
本阿弥妙寿
- 本阿弥家五代当主
- 永禄3年(1560年)正月26日没
- 嗣子なし。
本阿弥本光
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本阿弥家六代当主
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本姓松田氏で、本阿弥家に養子に入る。
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先代・本阿弥妙壽の長女は、松田右衛門三郎清信を婿に取り本光を名乗ったという。異説では三代妙大の養子となったという。
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足利義教に仕えた。
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天文3年(1534年)2月14日没
はじめ清信刀剣の故により将軍義教の忌諱に触れ獄舎に投ぜられしが、獄中に於て日蓮宗叡昌山本法寺開祖日親の高徳に帰依し、出獄後剃髪し日親の唱によりて本光と称す、是より本阿弥は本法寺の檀徒となり一門法華宗を報ずること篤く男子は名上皆光字を用ゐるを例とす
- この本阿弥本光(初名松田清信)は、嘉吉元年(1441年)6月23日、将軍義教が赤松邸に出かける際に国吉の鯉口が緩いために何度も抜けるために入獄させられたという。しかし年代が合わないため、3代の本阿弥妙大ではないかと思われる。「抜国吉」の項参照
本阿弥光心(こうしん)
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本阿弥家七代当主
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三郎兵衛
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「光心押形」の著者
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永禄2年(1559年)2月2日没、64歳
没年齢を見ると、3代~7代までが直系卑属だけでつながったとは考えにくいため、いずれかが兄弟の関係、または5代妙寿と妙秀が早くに没し本光が松田家から養子に入りさら本光死後に7代光心が継いだとも指摘される。 -
「光心押形集」弘治2年(1556年)3月の奥書。土屋温直の筆写本が静嘉堂に現存した。名物16振りを含み、当時の所有者として、安宅冬康、島井宗室、堺の樋口屋、一色藤長、松永久秀、今川義忠などの名前が見える。本阿弥家から三好長慶に売った相州正宗在銘の押形も載っている。
本阿弥光刹(こうさつ)
- 本阿弥家八代当主
- 又三郎、三郎兵衛
- 七代本阿弥光心の子で永正13年(1516年)生まれ。養子光二が家をついだあとに生まれるが、光二は別家をおこし、光刹が本阿弥宗家八代を継ぐ。
- 秀吉から「刀剣極所」に任ぜられる。
- 通称は又三郎、三郎兵衛。
- 天正9年(1581年)9月8日没、64歳
本阿弥光徳(こうとく)
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本阿弥家九代当主
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天文23年(1554年)の生まれ、元和5年(1619年)7月20日没、64歳
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折紙は天正~慶長9年(1604年)まで
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通称は又三郎、三郎兵衛。諱は幸忠、益忠。
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秀吉から刀剣鑑定所を免許され銅印を拝領した。この後江戸期になっても本阿弥家が世襲することになる。
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「光徳刀絵図」の著者
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享保名物帳では、厚藤四郎、後藤藤四郎、朱判正宗、桑名正宗、御掘出貞宗、前田正宗、桑名江、村雲江、稲葉志津、大相馬兼光、大三原、長左文字、脇屋江、横雲正宗、岐阜国吉などに名前が残る。
本阿弥光室(こうしつ)
- 本阿弥家十代当主
- 天正11年(1583年)生まれ、寛永2年(1625年)11月26日没、42歳。
- 折紙は慶長9年(1604年)~寛永2年(1625年)まで、花押は前後で変わる
- 光徳の子
- 通称は又三郎、三郎兵衛。諱は幸忠、直忠。
- 秀忠に仕え、毎日2時間ばかり刀剣の目利きの指南をしたと伝わる。その時には、抜身をそのまま秀忠が手渡しで受け取るほど信頼を受けていたという。
- 享保名物帳では、冨田江、無名藤四郎、中川江、五月江、大島行光、骨喰藤四郎、石井正宗(秋田正宗)、鎬藤四郎などに名前が残る。
本阿弥光温(こうおん)
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本阿弥家十一代当主
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慶長8年(1603年)生まれ、幼名又三郎。
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通称は又三郎、三郎兵衛。諱は忠利、忠好。
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寛文7年(1667年)5月2日没、65歳
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折紙は寛永3年(1626年)~寛文7年(1667年)まで、花押は5度変わる。
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弟に光的、光由、光龍、光山の4人がいたが、それぞれ別家を立てた。
- 「光温押形」:刀の切先と中心の押形。寛文元年(1661年)正月15日の奥書。
本阿弥光達(こうたつ)
- ある老中の刀剣購入に際して失策があり職を免ぜられ、家督相続せず子の光常に譲っている。
- 貞享4年(1687年)8月28日没、66歳
本阿弥光常(こうじょう)
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本阿弥家十二代当主
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三郎兵衛。諱は忠益。
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寛文7年(1667年)~元禄9年(1696年)まで、花押は2度変わる。13代光忠とともに「元禄折紙」または「元禄金銘」「元禄朱銘」と呼ばれる。
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宝永7年(1710年)8月15日没、68歳
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光温の孫
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享保名物帳では横須賀江に名前が残る。
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墓は光悦寺。
光常及光忠墓
同所。光達墓の左に並ぶ、表面に
南無妙法蓮華経
至信院光忠日深居士
通□(辶哀)院光常日行居士
至誠院妙諦日語霊尼
通性院妙春日□霊尼
右側に寶永七庚寅八月十五日、左側に寶永三丙戌年十月十五日と刻す、光常は光達が男、家業を継ぎ、光忠は光常が男、家を継ぎ、十三代となる、子光勇より世々相傅へ二十一代道太郎氏に及ぶ。
本阿弥光忠(こうちゅう)
- 本阿弥家十三代当主(養子で入る)
- 三郎兵衛。諱は忠陳。
- 折紙は元禄9年(1696年)12月~享保10年(1725年)9月まで。12代光常とともに「元禄折紙」または「元禄金銘」「元禄朱銘」と呼ばれる。
- 享保10年(1725年)9月20日没
- 八代将軍吉宗の命により、享保4年(1719年)11月に享保名物帳を献上。
本阿弥光勇(こうゆう)
- 本阿弥家十四代当主
- 三郎兵衛、諱は忠充、忠則。
- 折紙は享保10年(1725年)末~宝暦10年(1760年)まで。※以降は一代一花押
- 宝暦10年(1760年)12月23日没、57歳
本阿弥光純(こうじゅん)
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本阿弥家十五代当主
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三郎兵衛、諱は忠宣。
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折紙は宝暦11年(1761年)~明和8年(1771年)まで。
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この頃には、5つの拝領屋敷があったという。
- 京都小川通実相院町
- 江戸神田永徳町三丁目 445坪
- 鉄砲洲船松町 556坪
- 神田永富町四丁目 327坪
- 上野広小路大門町 248坪
-
明和8年(1771年)7月29日没
その後
16代:光久(こうきゅう)
- 養子。
- 三郎兵衛。諱は忠起。
- 折紙は明和8年(1771年)11月~寛政元年(1789年)まで。
- 寛政元年(1789年)閏6月12日没
17代:光一(こういつ)
- 養子、光敬の子。三郎兵衛。諱は光敬(忠皎)。
- 折紙は寛政元年(1789年)~文政8年(1825年)まで。
- 本阿弥光一押形集:本阿弥光一押形集-国書データベース
- 「古刀秘苑」「新刀定規」の著者(菅原忠皎)
- 文政6年(1823年)9月16日没 ※8年か
- 子の又三郎は早世
18代:光鑑(こうかん)
- 17代光一の次男。初め光隆の養子、兄の早世で復帰。
- 亀三郎、三郎兵衛。諱は忠鑑。
- 折紙は文政8年(1825年)~嘉永7年(1854年)まで
- 嘉永6年(1853年)4月15日没 ※7年か
19代:忠明(ちゅうめい)
- 光仲
- 18代光鑑の長男
- 三郎兵衛、諱は忠明。
- 明治2年(1869年)3月3日没
20代:忠通
- 柏原信治郎の次男、悌三郎。忠道、弘道。
- 幕府瓦解の際に分家の徳太郎(公鑒)らと図って幕府の蔵刀を米倉に移し保管したという。
- 宮内省御剣係
- のち離縁、柏原一三と改名し旅館業を営む。
- 子供の道太郎が6歳で家督を継ぐ。成人後靴屋となり、明治28年(1895年)広島で病死。
本阿弥分家
光二系
【本阿弥分家:光二系】 光二1──光悦2──光瑳3──光甫4──光伝5──光通6──光春7──光敬8──光隆9──亀三郎10──光廉11──俊蔵12──清儀13 多賀高忠──次太夫 ↓ 片岡家━━宗春 片岡 ├─────┬乗信入道───┬長男 ┌─二女 │ └光瑳 │ └光二1 ┌法秀 ↓ │ ├──┼光悦2━━光瑳3 │ ┌妙秀 ├宗知 ├───光甫4 │ │ └妙光 ┌妙山 ├─光伝5 本阿弥妙寿5┴─長女 │ ├──┼光室10─┬妙泉 ├──光心7─┼光刹8─┬光徳9 └光益 └光温11 松田清信(本光6) └光意 └光味──光伯
本阿弥光二(片岡次郎左衛門)
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本阿弥光悦の父
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本阿弥分家初代
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大永二年(1522年)生まれ、慶長八年(1603年)12月27日没、80歳。妻の妙秀は元和4年(1618年)7月5日没、90歳。
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幼名次郎三郎、次郎左衛門。清忠。
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片岡次大夫宗春が本阿弥妙寿の二女を妻とし、生まれた次男が次郎左衛門といい、これが本阿弥家に養子に入り光二と名乗ったという。これによれば光心と光二は従兄弟で義理の親子ということになる。
本光の娘妙福ともいう -
本阿弥本家7代目の本阿弥光心の娘妙秀を妻とする。
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永禄年中に今川義元に仕えたという。この時、三河の松平竹千代(後の家康)も人質として今川家に滞在しており交わることがあったという。
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義元が竹千代に脇差を作ってやる際に、光二が木型を造り、それを島田鍛冶国房にやり二振り作らせた。出来のいいほうに光二に命じて拵えを作らせ竹千代に与え、もう一振りは光二が拝領したという。これは5代後の光伝まで代々差料としたという。
竹千代様に義元より御脇指を可被上候て本形光二仕、駿州島田國房に貳腰御打せ出來宜方御指上候積り壱腰を義元より光二に被下、今以所持仕候
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まだ越前府中領主であった小身の頃の前田利家とも交流があり、利家が出世すると扶持をもらうようになった。それが光山に引き継がれ加賀本阿弥と呼ぶようになったという。
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その後信長と昵懇となり、毎日御前に罷り出けるという。
本阿弥光悦(こうえつ)
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本阿弥分家2代
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永禄元年(1558年)生まれ、寛永14年(1637年)2月3日没。81歳
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次郎三郎。太虚庵、自徳斎。
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清友
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「光悦押形」の著者
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父は本阿弥光二(片岡次郎左衛門)、母は本阿弥光心の娘妙秀。
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父につづいて加賀前田家に仕え、2代前田利長、3代前田利常に二百石の知行を受けている。
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書を能くし、近衛信尹・松花堂昭乗と共に寛永の三筆の一人と称され、その書流は光悦流の祖と仰がれる。
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家康は、この本阿弥光悦に京都鷹ヶ峰の地を与え、本阿弥一族や町衆、職人などの法華宗徒仲間を率いて移住した。光悦の死後、光悦の屋敷は日蓮宗の寺(光悦寺)となっている。
本阿弥光瑳(こうさ)
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本阿弥分家3代
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次郎左衛門。
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天正6年(1578年)の生まれ、寛永14年(1637年)10月5日没64歳
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片岡垂信入道の子で、光悦の従兄弟。光悦の嫡男徳善が元和9年に夭折したため光悦の養子となり、後を継ぐ。
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光瑳は、下研ぎ、中研ぎ、水仕立て、拭い、磨きとすべての工程で名人と言われた。秀忠が、本家の光室に名人は誰かと問われた時に光瑳であると答えたという。
本阿弥光甫(こうほ)
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本阿弥分家4代
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光瑳の子
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慶長6年(1602年)の生まれ、天和2年(1682年)7月24日没、82歳。妻は光室の娘で、同年11月没。
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三太郎、次郎三郎。諱は薫治。
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空中斎と号す。法橋、寛永18年(1641年)に法眼。
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享保名物帳では、小松正宗、中川江、五月雨江、鳥飼国次、亀甲貞宗、宗瑞正宗、早川正宗、有楽斎国光、数珠丸恒次、小夜左文字、大典太光世、上杉江などに名を残す。
本阿弥光伝
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光甫嫡男、加賀前田家お抱え。
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次郎左衛門、長門掾。
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法橋
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元禄9年(1696年)5月18日、71歳で没。妻は本阿弥光温娘とされる。病弱で子供はいなかったという。また由緒帳では「由緒無御座候」と妻がいなかったことになっている。
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三百石
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光悦以来の鷹ヶ峰の地を継ぐが、延宝7年(1679年)に幕府に返上する。
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墓は光悦寺。
光甫墓の左に位す、
南無妙法蓮華経
元禄九年五月十八日
圓行院長傅日妙法師
如是齋光通日終法師
享保五庚子八月十二日
光傅は光甫の子、長門椂法橋に叙せらる、墓石には圓行院長傅と刻すれど、本阿彌家計にも長傅の語見えず、又本法寺光悦寺の本寺の什宝にも光傅筆と稱するものあれど、長傅とは見えず、然れども其沒年は墓石に刻する處と合するを以て此墓は光傅の墓なりと信ぜらる。
本阿弥光通
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光伝の弟で養子となり、兄の後を継ぐ。
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11歳の時に加賀前田綱紀に御目見得を許されている。
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四郎三郎、次郎左衛門(三百之助)
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三百石を相続する。
右光通儀拾壱歳之時、光伝金沢江召連罷越、初而御目見得被仰付御用相勤申候、光伝儀元禄九年病死仕、同年十二月故光伝遺知三百石無相違被仰付、享保五年8月五拾壱ニ而病死仕候
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兄光伝の死の翌年に江戸に移住させられている。
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享保5年(1720年)8月11日没
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墓は光悦寺。
光傅と同一墓なり、光通は光傅が嗣子、光甫が第八男、享保五年沒す。此墓石の前方に光悦の手水鉢と稱する風雅なる自然石在り、亦光悦草庵の遺物として昔を偲ぶに足る。
本阿弥光春
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光通子。
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次郎左衛門。永清。
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安永7年(1778年)6月25日没、59歳。
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妻は大番士奥田助左衛門の娘。安永5年7月死去。
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正徳3年5月28日に前田綱紀に初御目見得。
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「三百石 本阿弥次郎左衛門」「百五拾石 本阿弥十郎左衛門」
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享保元年にも御手入れをしている。
御道具手入被仰付、右御用相済罷帰於江戸表銀子拝領被仰付、同六年故光通遺知三百石無相違相続被仰付、其後度々金沢江罷出御用相勤、宝暦八年五拾八歳ニ而病死仕候
本阿弥光敬
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次郎太郎。清俊。
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寛延元年(1748年)8月に金沢に入り8代前田重煕にお目見え。宝暦5年(1755年)には父の名代として御道具御手入れを務め、銀十枚を拝領する。
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嫡男光一は本家に養子に出しており、十郎左衛門本阿弥光蘇の次男を養子に取る。
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寛政2年(1790年)8月14日没。妻は本阿弥三郎兵衛の養女で、寛政12年12月に死去。
本阿弥光隆
- 十郎左衛門本阿弥光蘇の次男。
- 幼名三四郎。
- 本阿弥光敬の養子となり、次郎左衛門と改名する。
- 寛政10年(1798年)5月21日に29歳で死去。
- 亀三郎が継ぐ
本阿弥光鑑(亀三郎)
- 養子。宗家光一の次男
- 亀三郎
- 文政5年宗家を継ぐ
- 文化3年(1806年)に三百石を相続するが、宗家三郎兵衛家に跡継ぎがなく、本家を継ぐ。
- 跡は光廉が継ぐ
- 安政4年(1857年)12月11日没、61歳
本阿弥光廉
- 光恕の嫡子。
- 亀三郎の養子となり継ぐ。
- 次郎太郎。清之。
- 目の具合が悪くなり、安政4年(1857年)剃髪、慶応3年(1867年)3月に隠居。明治4年(1871年)まで生存。
- 妻は本家光鑑の養女で、天保13年(1842年)6月没
本阿弥之廉
- 光廉の嫡子。
- 三男、三百之助、次郎三郎。
- 俊策、俊蔵。
- 安政2年結婚。妻は宗対馬守の医師、塩田揚庵の養女。子は、多喜雄、本阿弥寿禄、娘二人。
- 明治4年8月12日病死。
本阿弥多喜雄(清儀)
- 本阿弥之廉の嫡男。
- 父の病死にともない、明治4年11月15日相続。
光意系
- 宗家8代目光刹の弟である光心の三男。
- 天正6年(1578年)摂津伊丹城主荒木村重が信長に叛旗を翻した際に帰順をすすめる秀吉の使者にたち、その功により洛北の一乗寺村の内、50石を知行として与えられる。
【本阿弥分家:光意系】 光意─光祐─光作─光茂─光理─光通─光柳─九郎左衛門─政之丞─吉五郎─猪三郎─光栄─成章─平十郎
本阿弥光意
- 宗家光心の三男。
- 慶長9年(1604年)8月2日没
本阿弥光祐
本阿弥光作
- 江戸へ移住。
- 寛文11年(1671年)7月25日没
本阿弥平十郎
- 成章の兄
- はじめ病身により廃嫡。全快ののち弟より家督相続。
本阿弥成応
- 養子。直之丞
- 成章の子
本阿弥成重
- 養子
- 平十郎、もと江口倉次郎。
- 金肌拭い法を発案した近代研磨の創始者。
- 明治15年(1882年)7月16日没
本阿弥琳雅(りんが)/本阿弥成善
-
成重の養子。
- 実は山本節蔵。子。本阿彌三五郎、山本貞造、本阿彌成善の父。明治29年(1896年)7月21日没。
-
安政6年(1859年)江戸生まれ。幼名を山本羊三郎。数寄屋坊主の次男であったという。母・柳は本阿弥直之丞の妹。
-
直之丞、成春。成善。
-
明治44年(1911年)杉山茂丸の命名で琳雅と改名。
-
関東大震災で家財を焼失してしまい、昭和2年(1927年)9月23日没、68歳
本阿弥日洲(にっしゅう)
- 刀剣の研磨・鑑定を業とする平井千葉の長男。
- 本名猛夫
- 明治41年(1908年)東京生まれ。
- 本阿弥琳雅(成善)に師事し、夫婦ともども子の無かった本阿弥琳雅の養子となった。この時両家が裁判所に呼び出され詮議を受けてようやく認められたという。
- 文化財保護委員会審査委員などをつとめた。
- 昭和50年(1975年)、刀剣研磨で重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に認定された。
- 平成8年(1996年)7月13日88歳で死去。
本阿弥光洲(こうしゅう)
- 本阿弥日洲の子。本名は道弘。
- 父に師事し、光意系本阿弥18代を継ぐ。
- 平成26年(2014年)、重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に認定された。
- 日本刀文化振興協会理事長、美術刀剣研磨技術保存会会長などをつとめる。
光味系
本阿弥光味
- 宗家8代目光刹の次男。
- 初め松田弥三郎。松田弥三良。
- 元和元年(1615年)9月8日没。
- 家康が朝鮮出兵に当たり肥前名護屋に赴く際に船中でお使いをしたために知行百石を与えられた。
御腰物奉行支配 本阿弥光伯
権現様御代、先祖光味義、高麗陣御供仕、為御褒美知行百石被下置候旨申伝候由、御朱印無之
本阿弥光伯(光味系2代)
-
明暦元年(1656年)7月5日没
-
「本阿弥家刀剣鑑識書」
-
この光伯の妻は延宝6年(1678年)2月18日卒。
-
光伯には法名妙源という姉妹がおり、慶長9年(1604年)3月21日没
本阿弥光因(光味系3代)
- 養子
- 本光因の実母という人物が寛永15年(1638年)7月20日卒。
- 延宝6年(1678年)9月2日没
- 法名妙理という妹が居た。
本阿弥光察(光味系4代)
- 貞享元年(1684年)5月3日没
- 妙宗、教行院玄皎覚日順という弟が居た。
本阿弥光柏(光味系5代)
- 七良右衛門
- 享保8年(1723年)12月5日没。享年78
本阿弥光禹(光味系6代)
- 七良右衛門
- この代より、存命中に法体となり光○と名乗ることはなかったらしい。
- 明和3年(1766年)9月4日没
- 法名義海院光禹日渕居士
本阿弥光蹊(光味系7代)
- 源蔵
- 天明3年(1783年)3月7日没
本阿弥光諱(光味系8代)
- 七良右衛門
- 忠惟
- 文化10年(1813年)12月18日没、58歳
本阿弥光以(光味系9代)
- 源蔵
- 天保8年(1837年)3月26日没、50歳
本阿弥光白(光味系10代忠正)
-
万三郎、のち七兵衛、七郎兵衛、七良右衛門、忠正。
-
文久3年(1863年)、慶応3年(1867年)の2回、京都御用で上洛している。七月に江戸を出発し、八月に誤用を勤め、九月に帰っている。
-
京都では、小川通今出川上ルに出張所があったらしく宿泊している。
大津泊より京都小川通今出川上ル本阿弥屋番下村運平方江可被相届候
-
明治新政府に請願書を出している。
-
明治2年(1869年)に宮内省が創設されると、まもなく調度課に御剣掛が設けられ、その係員として、本阿弥宗家の悌三郎忠道、七郎兵衛忠正、平十郎成重、兼次郎嘉忠、又四郎質直、経蔵忠富、徳太郎公鑒(竹中公鑒)、康二義武などの本阿弥一門と、川南門次盛謙(薩摩)が任命されている。
川南門次盛謙は薩摩藩士で、「古今鍛冶備考」に薩州鍛冶の系図を載せている川南門次盛行の子。本阿弥喜三二について研磨を習い、当時喜三二と並んで研ぎの上手と言われた。 -
御剣掛は宮内省管理の御物を研ぐのが仕事だったが、一般からの鑑定の求めに応じて全員で審査した折紙を発行している。これは宮内省の調度課に申し出たうえで初めて審査が受けられるもので、台帳に記入され台帳番号を中心棟に刻印するという厳格なものであった。
-
しかし人数が多すぎたのか1年余りで廃止されている。
-
明治4年(1871年)11月に昼の御座の御剣を研ぐという栄誉を与えられ、謝礼として二千疋を下賜されている。
本阿彌七良右衛門
金貳千疋
右
晝御座御劔御
手傳被
仰付候付被下之
辛未十一月
宮内省 -
明治9年(1876年)3月廃刀令。
-
明治9年(1876年)6月17日没。法名忠正院光白日乗居士。
-
妻はサダ。明治25年(1892年)2月5日没。享年72。
- この10代忠正のあと、11代忠敬、12代天籟、13代宗景と続く。
- その後、光意系の成重、成善、門人の平井千葉、千葉の息子本阿弥日州と継いだとする系図が載っているが、しかし成重は明治15年(1882年)没なので順序がおかしい。
【明治・大正期の本阿弥】 〔光山系〕 光二┬光悦─光瑳─光甫─光山…光蘇─光恕─光佐─長識 └妙光 (長根)(喜三二) ├光室10 本阿弥光心7─┬光刹8─┬光徳9 │ └光味1………光以9─┬光白10(十代忠正)─忠敬11──天籟12──宗景13 │ 〔光味系〕 │ │ └光賀…二代光賀…光遜─光博 │ │〔光意系〕 門人 └光意……………………………成重─┬成善──┬平井千葉─日洲─光洲 │ │ │門人 │門人 └今村長賀└光遜
- ※平井千葉は研ぎの名人。今村長賀は愛刀家。
- この忠正には弟が2人おり、1人は跡をついで本阿弥光賀となり、もう1人の又四郎質直は光的系の養子となった(上記御剣掛の1人)。
本阿弥忠敬(光味系11代)
-
光味系10代忠正の子。
-
万三郎、のち万太郎。
-
明治維新ののち慶喜が静岡に移住すると忠敬も従い、研屋町に住していた。
-
しかしまもなく元田永孚(菊御作の項を参照)に呼び戻され江戸に戻り、下谷に住したという。
-
のち明治20年(1887年)頃に牛込に引っ越したが、小石川区江戸川にも済んでいたという。水戸家の刀剣手入れなどをしていた。
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明治30年(1897年)4月3日没。法名本光院忠敬日義居士。
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妻は旗本の次女であったという。また弟妹が数名居たが、すべて夭折している。
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なお本阿弥宗家に伝わった銅印は、11代忠敬の晩年に、宗家の柏原一三氏より探幽筆、本阿弥光甫賛の三作の画幅とともに譲られている。
- 一寸角、厚さ二分、つまみの高さ九分。
本阿弥天籟(光味系12代)
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本名弥三郎。
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明治37年(1904年)「古今刀剣鑑定秘訣」を著す。これが活字印刷による最初の刀剣書であるという。
-
昭和13年(1938年)6月20日没、享年60
本阿弥宗景(光味系13代)
-
天籟の娘・喜美子の婿として昭和7年(1932年)に本阿弥家に入った。
-
備前浦上氏の末裔という。
-
明治37年(1904年)1月23日、岡山県邑久郡美和村生まれ。
-
17歳の時、長船の横山潜竜子祐定に入門した。祐定の父は茂平祐直(祐春)といい、宗景の伯母にあたる人物だったという。※正確には祐春の妻が宗景の母の叔母で、師匠祐定と宗景母がいとこの関係
この長船姓と並んで残存したのが、横山姓であります。この家系については、新刀銘集録に次のような系図が掲出されています。
この系図で茂平祐春の嫡子が、私の師匠横山元之進祐定で友成六十代の孫と称しておりました。祐春の妻は、私の母の叔母でしたから、母と師匠とはイトコの関係にありました。私は長船の隣りの美和村で、明治三十七年一月二十三日、つまりこの雑誌がお手元に届くころに、臍の緒を切りました。岡山市立商業学校を出まして、十七才の時、
「どうだ、わしの所に来ないか」
師匠から勧誘の声がかかりました。私は五人兄弟でして長兄は郵便局長をしていましたが、別に継がねばならぬ家業とてなかったので、師匠の勧誘に応じたわけです。当時の気持ちとしては、
「日本刀は面白そうだな、どんなものか、一つやって見るか」
そのくらいの軽い気持ちでした。私が十七才のとき、つまり第一次大戦の終り頃でしたから、或いは戦争気分が暗黙のうちに、私の若い血潮を日本刀のほうに向けていたのかも知れません。
師匠の家に行ってみると、奥さんはすでに亡くなっていました。奥さんは、岡山藩で千二百石取っていた岸織部の七女で、喜代という名でしたが、明治二十年八月九日、二十七の若さで亡くなりました。それで当時は娘と孫と三人暮らしでした。娘さんは養子を迎えていたのですが、男の児が一人できてから離縁になっていました。男の児も早世したので、娘さんが亡くなると、師匠の家は断絶したことになります。
(略)
師匠のうちの鍛冶場は、主屋の向って右側に並んでありました。その前の庭先に井戸がありました。
(略)
その横に、師匠の悲願によって造剣之碑が建てられました。「わしでもう長船鍛冶は終りだから、この辺に長船鍛冶が居たんだ、というシルシを建てておき度い」と、口癖のように言ってましたが、資金の面でなかなか苦労しました。大正十四年九月になってようやく竣工しました。碑文は犬養木堂氏に依頼しました。刀の切先の形をした丈余の自然石に、「造剣之古跡」と大書されています。
「ああ、これでわしの長い間の夢が実現した」
七十をとっくに超えた師匠が、白髭をしごきながら満足そうに見上げている姿が、今でも眼の前に浮かんできます。
(長船最後の刀匠祐定師 本阿弥宗景)現在、岡山県瀬戸内市長船町長船216−1に建つ「造剣之古跡碑」の碑文「造剣之古跡」の五字は、犬養木堂の揮毫による。 -
第一次世界大戦の頃には、病に倒れた師の代行で研磨をしていたという。
師匠は大正十二、三年ごろ 脳溢血で病床の人となりました。それからは私が代研ぎをやっていましたが、もっと修行して自分の腕を磨きたくなりました。そこで昭和元年三月、上京して杉本薫秋氏のもとに身を寄せました。氏は井上行造氏の門人で、山田英氏(中央刀剣会主催)と兄弟弟子でありました。
-
また昭和元年(1926年)3月には上京して研師の杉本薫秋に弟子入し、研磨を学んでいる。
-
昭和3年(1928年)には、浅間神社より昭和天皇の即位御大典に際して宮内省への献上刀の作製を依頼されている。さらに地元有志が浅間神社に御大典記念として奉納する刀の作製も依頼されている。
於富士浅間神社 浦上宗景作
以慶長神釘造之 昭和三年正月日- 師の祐定は昭和5年(1930年)に81歳で没。孫の祐一も二十歳で死去し、長船鍛冶の直系は絶えた。
本阿弥光賀
- 知三郎 ※忠正の弟
- 水戸家のお抱え。
- 明治20年(1887年)6月29日没
二代光賀について
-
※光賀の跡を11代忠敬の門人の和田正秀(足利市の織物屋の息子)が本阿弥を自称して継ごうとするが、正式に継ぐ前に本阿弥忠敬から破門され離縁された。
-
しかし忠敬が死んでしまったため、和田正秀は「二代光賀」「妙本阿弥日忠正統二十一伝」と称して地方を巡り、あるいは神州刀剣会を起こしたり、刀剣番付表を発行するなど活動した。
-
なお和田正秀は河井継之助の遺児だという説がある。
- ※ただし「伝聞」と書かれており、注意が必要。主に河井継之助の息子としての興味があっての調査が行われている。
- それによれば、明治後継之助の残された家族は一家離散の憂き目に遭う。その時家僕・萩原利八は継之助の遺児・利根之助秋詮を連れて生家である上野足利郡菱村へと戻ったという。そして当時山田郡桐生東久方村に住んでいた利八の息子・和田勇七に預け、これを養子として育てたのだという。ここで「和田正秀」と改めたという。
- のちアメリカ留学し、帰国後は東京大学校分科教師になっており、来日したフェノロサの通訳兼秘書として各地に同行し、美術に通じたという。のち東京美術商組合に属し、刀剣鑑定にも優れた技量を持っていたことから、のち二代光賀を名乗ったとする。のち満州に渡るが、昭和4年(1929年)帰途の熊本人吉で病没したという。享年64歳。墓が桐生市菱町文昌寺(瑞雲山文昌寺)にある。法名は「正直院秀光活道居士」。
- 墓碑「和田正秀・初め河井利根之助秋詮、後に本阿弥光賀と号す。越後長岡の人故あって家僕萩原利八に伴われて、桐生に来り、利八の子勇七に養われて同地に落草し、和田姓を名乗る。長ずるに及び実父河井継之助との因縁により、官途に就くを欲せず、専ら刀劔鑑定の技を以て世に立つ。即ち妙本日忠正統廿一伝本阿弥光賀の称号をもって終始す。晩年日露の戦蹟を弔はんとして渡満しその帰途、病を得て遂に昭和四年十一月十八日熊本県人吉町に於て病歿す。享年六十四歳。家族 妻信子(松岡氏) 長女威子 長男正脩 次男英の三子 昭和丁丑年(昭和十二年)弥生上旬之建 和田正脩識」
- 桐生史苑 (17) - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 桐生史苑 (22) - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 日通文学 46(4)(526) - 国立国会図書館デジタルコレクション
-
※なお同氏が昭和4年(1929年)に九州で客死したこと、また大正10年(1921年)に桐生市に対して家屋五戸土地千三百三十七坪時価三萬余圓を寄付したことから紺綬褒章を授与されたことは事実である。
日本帝国褒章之記
桐生市大字下久方
和 田 正 秀
大正十年十一月桐生市特別会計市費基本特別財産トシテ土地四段四畝四歩竝建物六棟寄附ス依テ大正七年九月十九日勅定ノ紺綬褒章ヲ賜ヒ以テ云ヲ表彰セラル
大正十一年十一月十三日
賞勲局総裁正二位勲一等
伯爵 正親町 実正
本阿弥光遜(こうそん)
-
明治12年(1879年)、上州前橋藩のお抱え医師川口孫太郎欽明の子として生まれる。
-
通称定吉
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12歳、父とともに東京に移住。
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本阿弥成善(本阿弥琳雅)に師事する。同門に平井千葉。
-
18歳のとき、師匠本阿弥成善(のち琳雅)の世話で断絶していた水戸本阿弥の光賀の名跡を、光賀の妻の親戚の娘と結婚するという条件で相続。本阿弥光遜を名乗る。
私の家は本家八代の光刹の二男光味は分家した家の十代忠正の弟光賀が、壮年の頃一家を成して水戸侯に仕えたのです。私はその家を相続したのですから家系としては余り威張れませんね。
-
日露戦争頃に独立し、大正3年(1914年)「日本刀」、雑誌「刀剣研究」を発行。日本刀研究会を設立した。
-
大正14年(1925年)に「刀剣鑑定講話」、昭和17年(1942年)「日本刀大観」を出版。
-
戦後70歳になると芥子庵宗甫と称した。
-
昭和30年(1955年)77歳のとき、「日本刀の掟と特徴」を出版、翌7月26日死去。
- 太刀
- 銘「清綱」。昭和10年(1935年)8月3日重要美術品認定
- 刀
- 銘「眞利」。昭和10年(1935年)8月3日重要美術品認定
- 太刀
- 銘「備前國長船住景光」。昭和10年(1935年)8月3日重要美術品認定
- 弟子に小野光敬 (おの こうけい)
- 大正2年(1913年)盛岡市生まれ。幼名清之助。昭和4年(1929年)16歳の時に加藤勇之助(石川周八の門下)について研磨の指導を受ける。ここで差し込み研ぎを学ぶ。のち兄を頼って刀剣会が活発に行われていた満州に渡る。
- そこで内藤四郎お知己を得て本阿弥光遜門下となるが空きがなく3年後の昭和13年(1938年)25歳の時にようやく入門できた。
- 31歳で独立を許され「光敬」の号をもらう。昭和20年(1945年)には帰国。
- 戦後日本刀の世界は大きく変わり、当時調査課長であった本間順治氏に進められ国立博物館に勤務することになる。
- 昭和27年~昭和52年まで正倉院御物148口(大刀55口、手鉾5枚、鉾33枚、刀子類約80口)をはじめ、厚藤四郎、江雪左文字、城和泉正宗、中務正宗、稲葉江、山鳥毛一文字など国宝20口、重要文化財200口もの刀剣類研磨を数多く手がける。昭和42年(1967年)54歳で国立博物館を退職。昭和50年(1975年)4月23日に人間国宝認定。平成6年(1994年)6月29日、80歳で死去。
本阿弥光博(こうはく)
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大正8年(1919年)生まれ。
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父の氏に伴い、家督を継ぐ。
-
昭和48年には「日本刀鑑定法」を出版する。
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昭和54年(1979年)7月没。
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所持刀
- 太刀
- 銘備州長船住国宗。昭和16年(1941年)7月3日旧国宝指定。赤星鉄馬旧蔵。
- 太刀
- 銘吉家。昭和27年(1952年)3月29日重要文化財指定。比毛関旧蔵。
- 短刀
- 無銘貞宗(名物 池田貞宗)昭和29年(1954年)3月20日重要文化財指定。
光益系
本阿弥光益
-
宗家光徳の次男
-
元和4年(1618年)11月27日に尾張徳川家より知行三百石を拝領している。
本阿弥光徳次男光益江知行三百石被下置之、
-
寛文5年(1665年)2月25日没、82歳
- この光益の次男(光務の弟)に灰屋紹益がいる。通称三郎兵衛。諱は重孝。慶長15年(1610年)生まれ。豪商灰屋紹由(はいや じょうゆう)の養子となり跡を継いだ。詳細は「吉野太夫」の項参照
本阿弥光宿
- 太郎左衛門
- 元禄7年(1694年)2月7日没
本阿弥光務
- 又左衛門
- 光宿の弟
- 元禄7年(1694年)8月4日没
本阿弥光懌
- 太郎左衛門
本阿弥光律
- 元文2年(1737年)2月29日没
本阿弥光賀
- 養子
- 光察の次男
光的系
- 宗家光室の次男。
- 貞享4年(1687年)2月29日没、84歳
本阿弥光怡
- 市郎兵衛
- 元禄4年(1691年)7月7日没
本阿弥光是
- 市三郎、市郎兵衛
光由系
- 宗家光室が光瑳の次男を養子にもらい三男としたもの。
- 十郎兵衛
- 元禄2年(1689年)5月3日没
本阿弥光和
- 十郎兵衛
本阿弥光安
- 若松屋久兵衛
- 享保19年(1734年)9月1日没
本阿弥光寿
- 養子
- 寛政元年(1789年)9月12日没
光龍系
- 宗家光室の四男
- 寛文10年(1670年)4月26日没
本阿弥光林
- 光龍系二代
- 貞享4年(1687年)没
本阿弥光竹
- 光龍系三代
- 養子
藤右衛門
- 光龍系四代
- 養子
奥右衛門
- 光龍系五代
- 養子
久次郎
- 光龍系六代
虎之助
- 光龍系七代
百次郎
- 光龍系八代
- 本阿弥光栄三男、養子
百次郎忠門
- 光龍系九代
百次郎光昌
- 光龍系十代
- 伊勢大掾
- 本阿弥光佐三男
鋮太郎
- 光龍系十一代
本阿弥光幽
-
※詳細不明
-
養子
-
安永2年(1773年)没
-
光幽の名前は、文政7年(1824年)写しの「本阿弥光幽書写」に残る。
本阿弥光品
-
※代数不明
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本阿弥百次郎
-
本名は桑島光品。刀剣鑑定家・木戸小七郎の長男。
-
慶応3年(1867年)伊勢大掾。
-
天保11年(1840年)生まれ。本阿弥家の養子となる。
-
明治18年(1885年)には吉川尹哲に師事して淘宮術(開運のための修養法)を学び、明治28年(1895年)に皆伝を許されている。
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明治44年(1911年)4月9日72歳で死去。
光山系
光山─光貞─光顕─光蘇─光恕(長根)─光佐─長識─親善
本阿弥光山(こうざん)
-
光二系四代目光甫の五男。
-
寛永11年(1634年)生まれ、正徳4年(1714年)9月18日没、81歳
-
通称、大学。諱は親矩。
-
宗家光温の五男という名目にして分家させた。
本阿弥光貞
- 若い時から朝廷に出入りし、覚えがめでたかったため下総掾を下された。
- 宗家の本阿弥光常の了解を得ていなかったために光常が怒り、光貞の家督相続を承認しなかった。
本阿弥光顕
- 亀松
- 光山系の本家にあたる光通のもとで稽古に励み、22歳の時光常の怒りを解き嫡孫丞祖で光山の跡を継いだ。
- 「鑑刀規範」と名付けた鑑定書はこの光顕が著述したもの。
- 男子がなく、妹の子親俊を養子とした。
本阿弥光蘇
-
十郎左衛門。光山の孫
-
諱は親俊
-
光顕の甥で養子となる。
-
加賀藩より百五十石
-
次男が三四郎。光敬の養子となる。
-
本阿弥十二家では光意系の光栄と並んで目利きとされた。
-
明和4年(1767年)9月~10月にかけ出羽秋田城下をはじめ各地をまわり、この時に鑑定した刀は1490余振りに及んだというが、これに対して1900余の極めを出している。つまり、全部を合格とした上で、さらに小札と添え状を二重に発行したものがあったことになる。
本阿弥光恕(芍薬亭長根)
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三太郎、六郎右衛門、重郎左衛門。諱は親平、忠純。光恕は法名。
-
加賀本阿弥家、光悦七世の孫。光蘇の長男
-
明和4年(1767年)生まれ、弘化2年(1845年)2月10日没、79歳
-
光蘇の百五十石を継ぐ
-
嫡子は光廉で加賀本阿弥を継いだ。
-
数多くの著作を残す
本阿弥光佐
- 勝三郎、正三郎、喜三二、忠恕
- 文久2年(1862年)7月29日没
本阿弥長識
-
敬蔵、喜三二、正佐。
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明治26年(1893年)12月13日没
-
本阿弥の若手を連れて前田家に赴き、同家の蔵刀で鑑定会を開いたという。
-
明治2年(1869年)宮内省に御剣係が設けられると一員に選ばれている。
-
焼き直しを看破するのが特異であったため「焼直し本阿弥」とあだ名されたという。
-
明治17年(1884年)には「空中斎草鈔」を出版して本阿弥全家の系譜を明らかにし「本阿弥行状記」を転載して先祖顕彰に務めた。
光珉系
- 宗家光温の三男
- 庄兵衛。
- 延宝6年(1678年)10月8日没
光達系
- 宗家光温の長男だったが廃嫡となった。
- のち健康も回復したため、弟の光常の奔走で絶家となっていた光徳弟の光淳の家を再興という名目で別家独立を許された。
- 貞享4年(1687年)8月26日没、66歳
本阿弥光順
- 六郎右衛門
- 元禄16年(1701年)4月14日没
本阿弥光祐
- 享保16年(1731年)12月2日没
本阿弥光葆
- 熊次郎
- 天明8年(1788年)6月18日没
本阿弥宗円
- 吉十郎、忠恒、光謙
- 天保2年(1831年)12月月没
本阿弥光円
- 養子、三二郎、光之丞、忠政、宗平
- 元治2年(1864年)正月20日没
竹中公鑒
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幕末の当主は公鑒で、明治2年(1869年)に御剣係が置かれると任命される。同4年にその制度が廃止された後も宮内省属として居残り、調度課長になっている。
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通称徳太郎。諱は仁信。
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本阿弥宗之丞の養子。本阿弥長識に師事。
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明治になって宮内省に奉職した際に、姓を本姓である五条家ゆかりの竹中に改め、竹中公鑒を名乗る
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鑑定入札も盛んに行い、外したものは必ず手に入れて研究をしたという。
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明治33年(1900年)に創立された中央刀剣会では後年刀剣審査員に推され、国宝制度ができるとその調査員に任命されている。
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太刀や拵えで気に入ったものは必ず模造し、遺愛刀のうち遊就館に陳列された刀はこの模造させた拵えか、自ら考案した拵えがついていたという。
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昭和2年80歳で没。
光沢系
- 光温の次男、光円の長男主馬が木村家を継いだため、弟の光沢が家督相続した
- 宝暦5年(1755年)7月19日没
本阿弥光勢
- 養子、四郎三郎、又左衛門、伊勢大掾
光栄
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本阿弥光徳の子。光室の弟。
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分家となるが、本阿弥十二家系図などには記載されていない。
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光室と同時代の人物で、刀剣の逸話にも登場する。
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元和元年(1615年)に本阿弥光悦は家康より洛北鷹峰の地を拝領する。光悦が移り住んだことで、光悦町と呼ばれる村ができたとされる。
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この「光悦町古図」には、光栄の名が複数箇所に現れる。
- 通り町すし東側:間口二十間
- 通り町すし東側:間口九間
- 刀剣では、「上部当麻」、「会津新藤五」、「凌正宗」の逸話に登場する。
- 「上部当麻」を城昌茂から買い上げ郡山藩主松平下総守へと売っており、「会津新藤五」を蒲生忠郷へ売ったとする。
- また「骨喰藤四郎」が大坂落城の際に行方不明になった時、井伊家の家来が京都七条の某寺において本阿弥光栄へ売りつけ、それを光室が二条城に持っていったとも言う。
江戸時代中期の本阿弥一族
- 「御家人分限帳」による本阿弥一族と生年の一覧
- 弐百七石五拾人扶持 山城 本阿弥三郎兵衛 光常養子、光円子 酉三十六(1669生)
- ※本阿弥光忠か?
- 弐百俵 本阿弥六郎右衛門 光順子 酉三十五(1670生)
- ※光順は光達系の2代六郎右衛門。その子は光達系3代本阿弥光祐。
- 百俵 弐拾人扶持 本阿弥九郎右衛門 光澄子 酉十九(1686生)
- ※光澄不明
- 百俵 拾五人扶持 近江 本阿弥光伯 光察養子、光伯子 酉六十(1645生)
- ※光味系5代になった光柏?光察は4代。光味系2代光伯の子という。
- 百俵 拾五人扶持 本阿弥市之丞 光知養子、十郎兵衛子 酉十(1695生)
- 百俵 弐拾人扶持 本阿弥弥市郎 光竹養子、光伯子 酉二十六(1679生)
- ※光竹は光龍系三代。つまり光龍系四代の「藤右衛門」?
- 百俵 弐拾人扶持 本阿弥市郎兵衛 光恰子 酉四十九(1656生)
- ※光味系2代光伯の子という。
- 百俵 拾五人扶持 山城 本阿弥光柳 光理養子、光龍子 酉四十四(1661生)
- ※宗家光室の四男光龍の子(つまり本阿弥光林の兄弟)で、光意系5代光理の養子という。
- 百俵 拾五人扶持 本阿弥庄兵衛 光積子 丑十八(1691生)
- ※光積不明
- 百俵 拾人扶持 本阿弥四郎三郎 光常養子、光順子 酉三十五(1670生)
- ※光順は光達系の2代六郎右衛門。その子で宗家12代本阿弥光常の養子という。
- 弐百七石五拾人扶持 山城 本阿弥三郎兵衛 光常養子、光円子 酉三十六(1669生)
明治以後
- 江戸時代に入ると幕府から刀剣極め所を仰せつかり、禄を受けるようになる。
- 明治維新で徳川幕府が瓦解すると、本阿弥家は極め所のち糸同時に禄も失うが、新政府の配慮により宮内省御剣掛に任命される。
- 御剣掛には、本阿弥家八軒のほか薩摩川南門次盛謙らも加わっており、宮内省では本阿弥の名で折紙を出すことを禁止し、御剣掛全員の連署で折紙発行させた。しかしこの制度も1年程度で廃止される。
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「本阿弥留帳(ほんあみとめちょう)」:本阿弥家に鑑定に出された刀の記録。慶長から安政に至る間で、和綴じ本が360冊とも380冊ともいわれる。刀がくるとまず手控えを作っておき、数年分が纏められ留帳として綴じられていた。安政初年で終わっているのは、まとめる前に明治維新が来たためである。
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「本阿弥光柴押形(ほんあみこうさいおしがた)」:光柴の名が載った資料は見つからないが、押形に付いた注記により慶長から寛永の頃の人とわかっている。名物押形が31振りもあり、その上で当時の所持者と寸尺が記されており参考になる。
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「本阿弥光済押形(ほんあみこうさいおしがた)」:古刀の中心の図、380を集めたもの。安栄3年(1774年)の写本が残る。ただし本阿弥宗在入道光済の名は資料には見当たらない。
- こぶ屋藤四郎
- ソハヤノツルギ
- 一平安代
- 一期一振
- 一柳安吉
- 三井
- 三位国次
- 三好政康
- 三好正宗
- 三好氏
- 上部当麻
- 上野江
- 不動正宗
- 不知代
- 世古延世
- 中務正宗
- 中川江
- 丹羽長秀
- 主水正正清
- 九鬼正宗
- 二つ銘則宗
- 二筋樋貞宗
- 五月雨江
- 五虎退吉光
- 井伊家伝来の刀
- 享保名物帳
- 京極正宗
- 今村長賀
- 今荒波
- 伊勢左文字
- 伏見正宗
- 伏見貞宗
- 会津新藤五
- 佐藤行光
- 信国重包
- 信濃藤四郎
- 倶利伽羅正宗
- 備前三郎国宗
- 元重
- 光山押形
- 八幡左文字
- 八雲正宗
- 凌正宗
- 刀工
- 分部志津
- 切刃貞宗
- 別所貞宗
- 前田利常
- 前田正宗
- 加賀前田家の江戸藩邸
- 北野江
- 博多藤四郎
- 厚藤四郎
- 古今銘尽
- 古筆
- 吉光
- 吉田兼光
- 吉野太夫
- 同朋衆
- 同田貫
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- 名物三作
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- 命なりけり
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- 国広
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- 坂本龍馬
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- 埋忠寿斎
- 埋忠明寿
- 堀部直臣
- 堺志津
- 塩河来国光
- 増田来国次
- 増田藤四郎
- 多賀高忠
- 夢切り
- 大供利
- 大倶利伽羅広光
- 大典太光世
- 大兼光
- 大包平
- 大国綱
- 大坂長義
- 大垣正宗
- 大島行光
- 大左文字
- 大江
- 大般若長光
- 大行平
- 大西左文字
- 大青江
- 大黒正宗
- 天下五剣
- 天下六瓢箪
- 天井刳り正宗
- 太郎作正宗
- 太閤御物刀絵図
- 太鼓鐘貞宗
- 夫馬正宗
- 奈良屋貞宗
- 安宅志津
- 安綱
- 宗易正宗
- 宗瑞正宗
- 富田切
- 富田江
- 寺沢貞宗
- 将軍家御腰物台帳
- 小夜左文字
- 小松正宗
- 小林国行
- 小池正宗
- 小竜景光
- 山伏国広
- 山姥切
- 山姥切国広
- 岡本正宗
- 岡田切
- 岩切海部
- 岩切藤四郎
- 島津正宗
- 川口陟
- 川田小一郎
- 布袋国広
- 庖丁正宗
- 庖丁藤四郎
- 康継
- 式部正宗
- 弥正宗
- 当麻派
- 後藤四郎兵衛
- 後藤正宗
- 御家名物
- 御鬢所行平
- 徳川吉宗
- 徳川美術館
- 截断銘
- 戸川志津
- 戸川来国次
- 折紙
- 抜国吉
- 持田謹也
- 敦賀正宗
- 新藤五国光
- 新身
- 日向正宗
- 日本三刀
- 日本刀
- 明智光秀の刀
- 明治天皇
- 昔之名剣御所之剣
- 星月夜正宗
- 昼の御座の御剣
- 景光
- 書物
- 最上正宗
- 朋誠堂喜三二
- 木下正宗
- 本圀寺
- 本多行平
- 本阿弥光室
- 本阿弥光山
- 本阿弥光徳
- 本阿弥光心押形集
- 本阿弥光忠
- 本阿弥光悦
- 本阿弥光柴押形
- 本阿弥光温
- 本阿弥光瑳
- 本阿弥光瑳名物刀記
- 本阿弥光甫
- 本阿弥成重
- 本阿弥長根
- 本阿弥長識
- 朱判正宗
- 朱判貞宗
- 朱銘長義
- 杉山茂丸
- 村雲当麻
- 村雲江
- 来国次
- 来国行
- 松井江
- 松倉江
- 松平忠直
- 松浦安吉
- 松浦静山
- 校正古刀銘鑑
- 桑名江
- 桑山当麻
- 桝屋江
- 楠左文字
- 樋口藤四郎
- 横須賀郷
- 正宗
- 正恒
- 毛利正宗
- 毛利藤四郎
- 水戸徳川家の江戸藩邸
- 永井正宗
- 江雪正宗
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- 池田来国光
- 池田正宗
- 池田貞宗
- 池田輝政
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- 津田遠江長光
- 浅井一文字
- 浮田志津
- 清水藤四郎
- 源来国次
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- 物吉貞宗
- 犬養木堂
- 琉球兼光
- 生駒左文字
- 田中光顕
- 田口儀之助
- 白樫包永
- 真守
- 祝儀の刀
- 神崎正義
- 神息
- 福岡一文字派
- 福島光忠
- 福島兼光
- 秋田国行
- 秋田実季
- 稲葉志津
- 稲葉郷
- 童子切安綱
- 笹露
- 篭手切正宗
- 篭手切江
- 結城来国俊
- 継平押形
- 織田信澄
- 美作津山藩松平家の江戸藩邸
- 脇屋江
- 芝吉光
- 芦屋正宗
- 若狭正宗
- 菊御作
- 著名人と刀
- 薬研藤四郎
- 蜂屋長光
- 蜈蚣切
- 蜘蛛切藤四郎
- 西方江
- 西郷隆盛の刀
- 詳註刀剣名物帳
- 豊後来国光
- 豊後藤四郎
- 豊臣家御腰物帳
- 貞宗
- 赤羽刀
- 道意正宗
- 道誉一文字
- 郷義弘
- 鄙田青江
- 重要美術品
- 野田繁慶
- 金森正宗
- 鉈切当麻
- 鉋切長光
- 銘
- 鎬藤四郎
- 鎺国行
- 鐙切り
- 長光
- 長義
- 長船派
- 長谷川江
- 長銘貞宗
- 関東大震災
- 陸奥新藤五
- 雷切
- 青屋長光
- 青木郷
- 香西長光
- 駿府御分物刀剣元帳
- 骨喰藤四郎
- 高木復
- 鬼丸国綱
- 鬼切安綱
- 鯨友成
- 鳥飼来国次
- 鵜首当麻
- 鶴丸国永
- 鷹の巣宗近
- 黒川幸七
- 黒田正宗