石切丸
名刀レスポンシブ1
石切丸(いしきりまる)
太刀
銘 河内有成
二尺五寸一分
重要美術品
石切剣箭神社所蔵(いしきりつるぎやじんじゃ 東大阪市)
- 河内国三条有成作
- 石切剣箭命神社由来によると、三条小鍛冶宗近の作という。
- 石切
石切剣箭神社 宝物殿
- 穂積殿宝物館
- 太刀「石切丸」と小刀「小狐丸」ほか御神鏡などを展示する。
- 常設展示ではなく、春(4月)と秋(10月)の大祭時にのみ一般公開される。
- http://www.ishikiri.or.jp/schedule/gohonsya/
来歴
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過去に流出していた経緯があり、その後買い戻したという。
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大正15年(1926年)に渡辺霞亭が編纂した「河内石切剣箭命神社由来」では、いわゆる神武東征の折に長髄彦を殺し天皇に帰服した「可美真手命(ウマシマジ)」の伝承を記し、ウマシマジは功を讃えて霊剣を賜ったとして当社の神霊がこの霊剣であらねばならぬとする。
高千穂の宮へはおほろ氣に聞えてゐたから深く可美真手命の壮挙を嘉みせられて、長髄彦が私領してゐた大和河内の土地を賜ひ、神異の霊劍を下されて偉功を賞せられた。當社の神霊はやがてこの霊劍であらねばならぬ。命が賜った霊劍が何であるかは明瞭しないが命と寶劍とには深い因縁關係がある。(略)石上神宮は古代の兵器廠で布都御魂を首めさまゝの寶劍が収められてゐる。此の意味から稽へると當社は石上神宮へ収め切れぬ寶劍や神異ある弓箭を収めて同じ兵器廠となされたのであらうと思ふ。
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しかしこの由来書でも、この「霊劍」が石切丸であるとは記しておらず、また石切丸についても触れない。
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昭和3年(1928年)の大阪府史蹟名勝天然記念物の同社の項にも、什宝の主なる物として本刀は記されていない。
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昭和14年(1939年)2月22日に重要美術品指定。原田耕三氏所持
太刀 銘 有成(再刃) 東京府鷹番町原田耕三
(文部省告示第五十八號) -
現在は石切剣箭神社所蔵。
石切丸兄弟刀
太刀
銘 有成
井伊美術館所蔵
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2019年4月、この石切丸の兄弟刀とされる刀が公開された。
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報道によれば、井伊美術館の井伊達夫館長が大阪府内の個人宅で発見し、10年前に日本美術刀保存協会に鑑定を依頼。形状の類似、「有成」の銘があることから兄弟刀と判断されたという。元は楠木正成ゆかりの金剛寺(大阪府河内長野市)の所蔵という。
その他の石切丸
- 同名刀が複数ある。
源義平の「石切丸」
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源義平(頼朝の長兄)が所持。
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「八龍の鎧」と共に帯びていた、叔父である源義賢を討ち取ったという四尺に余る大太刀。
嫡子悪源太義平は生年一九歳、練色の魚綾(ぎょりょう)の直垂に、八龍とて胸板に龍を八つ打て付たる鎧を着て、高角(たかづの)の甲の緒をしめ、石切と云太刀を帯、石打の矢負、重藤の弓持って、鹿毛なる馬の逸り切りたるに鏡鞍置せて、父の馬と同頭に引立たり。
(平治物語 ) -
河内ノ有成の作というがよくわかっていない。
相州善行の作、あるいは「あおみどり」や「笑栗」、「三くち丸」の作者である相州藤源次(保元ごろ)の作とする異説もある。 -
平治元年(1159年)12月、平治の乱に敗れた源義平が落ち延びる際に越前大野で「青葉の笛」と共に人に託したという。笛の方はその子孫の朝日家に伝えられ福井県大野市和泉に現存するが、太刀石切丸は散逸して現存していない。笛資料館 施設紹介 大野市公式ウェブサイト
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義平は翌永暦元年(1160年)に捕えられ、六条河原において処刑された。
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後白河法皇の御剣とも伝わり同時代であるため何らかの関連が指摘されている。
- この義平の石切丸については、いくつか伝承がある。
祖師野丸(そしのまる)
太刀
長 約80cm
伝 安綱作
祖師野八幡宮所蔵
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こちらは岐阜県下呂町祖師野字茅野の祖師野八幡に伝わったもの。
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大原安綱の作と伝える。
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籐巻太刀の外装が附く。
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義平伝承によれば、平治の乱で敗れた義平は下呂金山に逃れ、現在の岩屋岩陰遺跡の地で狒々退治をしたと伝わる。本刀はそれにちなんで「祖師野丸」と呼ばれている。
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養和元年(1181年)、村人で飛騨4ヶ村と美濃16ヶ村の総代となった田口左近光員が鶴岡八幡宮の分霊を勧請し、同20ヶ村の惣社として祖師野榧野に八幡宮を創立した。のち八幡宮は現在地へと移転している。
石切真守
太刀
銘 伯耆国大原真守/仁寿元年二月日
長 二尺八寸三分
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これも悪源太義平の太刀。
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同様に都を落ち延びた義平は、継母山(御嶽山西方)の麓にある栃ヶ窟大洞へとたどり着いた。ここで一宿一飯を得た義平は、里人たちから、白鬚明神に毎年ひとりずつ娘を生贄として捧げているという話を聞く。
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この話に怒った義平は、自ら身代わりとなり、この真守二尺八寸三分と備前助近一尺三寸の脇指を帯びて櫃に潜んだ。やがて何者かの足音を感じた義平が櫃から出て辺りを探ると、六尺ほどの影が櫃を伺い、空だとわかると櫃を踏み壊してしまった。
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やがて義平を発見した怪物が飛びかかってくると、義平は真守を抜いて斬りつけ、倒れたところをさらに踏み込んで二の太刀を浴びせた。この時、太刀は勢い余って櫃を置いていた大石を斬り落とした。重傷を与えたことで安心した義平はそのまま眠りこんでしまう。
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翌朝里人らがやってきて辺りを探ると、果たして六尺ばかりの大猿の死体が転がっていた。全身純白の長い毛で覆われ、両手は膝の下に届く長さであったという。義平の太刀は、大猿の左耳を削ぎ落として左肩を胸まで斬り込んでおり、さらに二の太刀は左の股を斬り落としていたという。
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しばらく里に逗留していた義平だったが、都の状況を知るに及んで里人らが諌めるのも聞かず去って都へと戻り、やがて石山寺にいたところを捕らえられ斬首された。
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これも上記祖師野丸の狒々退治伝説と同じである。
碓井貞光の「石切丸」
石斫丸(いしきりまる)
- 因州鳥取藩士の河田景与が戊辰の役に出兵後、信州で買い求めた和泉守兼定作。同郷(伯耆国大柿)の刀工宮本包則が「このような大乱れの刃は折れる懸念がある」と評したため、河田は憤然として庭の春日灯篭の笠を切り割ったがいささかの損傷もなかったという。
- その後京都府知事
槇村正直が譲り受けた。磨上て短冊銘にした上で、銀象嵌で石斫丸の由来を記したという。