豊後来国次
名刀レスポンシブ1
豊後来国次(ぶんごらいくにつぐ)
短刀
長八寸九分
- 来一門。来国次作。
- 享保名物帳:追加の部
豊後来国次 長八寸九分
秀吉公より豊後大友へ被下、文禄の頃家康公金廿枚に召上られ、秀忠公へ進せらる、利長卿関ヶ原の後伏見にて拝領、利常卿より本多上野介へ遣はさる
由来
- 豊後大友氏所持にちなむと思われる。
来歴
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豊臣秀吉から大友氏に下賜される。
天正14年(1586年)4月、大友宗麟が大坂に上り九州征伐を願い出た時に秀吉が脇差を与えており、それが本刀だとされる。 -
文禄の頃、家康が金二十枚で召し上げた。宗麟の息子義統は文禄の役において退却の罪に問われ文禄2年(1593年)5月、所領を没収され江戸から水戸その後安芸に流された。その時にこれを売りに出したとみられる。
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家康は秀忠に譲っている。
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関ヶ原のあと、秀忠は伏見において加賀の前田利長に与えている。
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利長の跡を継いだ利常は、これを本多正純に贈った。
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元和8年(1622年)8月、出羽山形の3代藩主最上義俊が改易された際に、本多正純は上使として山形城受け取りに派遣される。
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しかしその数日遅れて遣わされた伊丹康勝と高木正次が正純糾問の使者として後を追い、鉄砲の秘密製造や宇都宮城の本丸石垣の無断修理、さらには秀忠暗殺を画策したとされる宇都宮城釣天井事件などを理由に11か条の罪状嫌疑を突きつけた。
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結局正純は出羽の由利に追放され、佐竹氏預かりの身となった。
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以後、「豊後来国次」は所在不明。