名刀幻想辞典

豊臣秀吉

名刀レスポンシブ1

豊臣秀吉(とよとみひでよし)

木下藤吉郎
羽柴秀吉
筑前守、従五位下・左近衛少将
従四位下・参議
従三位・権大納言
正二位・内大臣
従一位・関白、太政大臣
太閤、豊太閤、猿、禿げ鼠
豊国大明神

所蔵品

太閤御物刀絵図

  • これら所蔵刀の目録がいくつか作られている。
    • 文禄三年(1594)六月十四日:毛利輝元の求めに応じたもの
    • 文禄四年(1595)五月十二日:宛名なし
    • 元和元年十二月(埋忠寿斎写)
  • 詳細は「太閤御物刀絵図」参照

形見分け

豊臣家御腰物帳(太閤家之御腰物之控)

  • 秀吉から秀頼に引き継がれた刀剣の台帳
  • 慶長五年(1600年)の豊家蔵刀調べ
  • 本阿弥光徳による蔵刀調査で、片桐且元が監修している。全七箱183口。
  • うち名物は下記を含む二十余口

名物茶器

  • 秀吉が名物茶器を手にしたのは、天正4年(1576年)7月の安土普請の功により牧谿の「洞庭秋月」の絵を拝領したのが始まりとされる。12月には但馬・播磨攻めを賞して「乙御前釜」を拝領する。茶会を許され、この2つの茶器ではじめて茶会を開いたのが天正6年(1578年)10月である。

  • その後、天正9年(1581年)には鳥取攻略の功により但馬の金山とともに8種類の茶器を与えられたという。この時の感動を、のち天正10年(1582年)10月に「今生後生に有難く忘れ難く存じ候」と書き送っている。

  • 本能寺の変ののち、天正13年(1585年)ごろまでに信長名物(安土名物とも)を集め、これは後に太閤御物と呼ばれるコレクションの4割を占めたという。天正11年(1583年)9月には大坂城でこの自慢の茶器の披露を行っている。

  • 天正13年(1585年)3月には大徳寺で茶会を開き、このときには堺や京の茶人150人あまりを招いて名物茶器を披露したという。

  • 天正15年(1587年)には秋月種実から「楢柴肩衝」を献上させたことにより、「初花肩衝」「新田肩衝」とともに、かつて東山御物であった「天下三肩衝」を一手に納めた。

  • 信長が、当時すでに「侘び」が取り入れられ始めていた茶堂の流れに逆らう形で唐物名物を蒐集するのに腐心したのに対して、一方で金ずくめのド派手で豪華絢爛な趣味を持ちながらも、千利休の影響を受けこの茶堂の流行である「侘び」の追求をも行った点が注目されている。これは大坂城内の山里曲輪などにも現れている。

  • 信長が唐物名物を中心に集めたのに対して、秀吉は東山名物、信長名物に加え、ルソン壺を愛好して蒐集させたほか、備前焼、瀬戸焼などの和物なども蒐集している。こうして秀吉が蒐集した名物茶器は、327点に上った。

生涯

  • 天正元年(1573年)ごろ羽柴秀吉を名乗る。

  • 本能寺の変(天正10年)以後の年表。以前については、「織田信長」項の年表を参照のこと

  1. 【天正10年(1582年)】 (秀吉46歳):

    中国大返し・山崎の合戦・清州会議・信長葬儀・長浜城岐阜城攻略
    • 1月1日 :信長、 安土城で参賀
    • 1月28日 :天正遣欧少年使節出航
    • 2月3日 :信長、 武田攻めの陣触れ
    • 3月2日 :信濃高遠城落城
    • 3月11日 :天目山の戦いで武田家滅亡
    • 3月14日 :信長、 首実検
    • 4月10日 :信長、 富士山見物
    • 4月12日 :信長、 駿河興国寺城で北条氏政の接待を受ける。 4月16日浜松城、 4月19日清州城、 4月21日安土城
    • 4月~5月 :信長に対する三職推任の動き
    • 5月8日 :秀吉、 備中高松城を包囲して水攻め開始
    • 5月15日 :家康、 安土城訪問。 17日まで光秀による接待(光秀は17日に坂本城)
    • 5月17日 :秀吉よりの中国出馬要請
    • 5月19日 :信長、 総見寺で観能。 同日備中高松城の堤防工事完了
    • 5月21日 :家康・梅雪は京へ出立、 同日信忠も妙覚寺入り(変当日まで逗留)
    • 5月26日 :光秀、 坂本城を出て丹波亀山城へ移る
    • 5月27日 :光秀、 愛宕権現参詣、 参籠。 28日連歌会ののち亀山城へ。
    • 5月29日 :信長、 中国出兵のために安土城を出て上洛(本能寺逗留)
    • 6月1日 :信長、 本能寺に公家衆らを招き茶会。 その後、 妙覚寺から訪れた信忠と酒宴。 信忠は深夜に妙覚寺へ戻る
    • 6月2日 :未明、 本能寺の変 (※以後、 主語のない行動の主体は秀吉)
    • 6月3日 :変の一報が届き、 停戦交渉開始
    • 6月4日 :清水宗治の切腹見分
    • 6月5日 :高松退陣、 備前野殿
    • 6月6日 :沼城(先陣は姫路城着)
    • 6月7日 :姫路城入り
    • 6月9日 :明石
    • 6月10日 :兵庫
    • 6月11日 :尼崎
    • 6月12日 :摂津富田
    • 6月13日山崎の合戦 。 のち淀城で宿営
    • 6月14日 :近江入り、 三井寺在陣中に光秀死の報
    • 6月15日 :安土城出火
    • 6月16日 :安土入り(同日近江の明智方諸城陥落)
    • 6月22日 :美濃・尾張で明智残党の掃討
    • 6月27日清州会議
      〔信雄・信長次男〕 :尾張
      〔信孝・信長三男〕 :美濃
      〔秀勝・信長四男〕 :丹波 ※羽柴秀吉養子
      〔三法師〕 :近江坂田郡+安土城。 後見人:羽柴秀勝、 傅役:織田信包と堀秀政
      〔柴田勝家〕 :越前+北近江三郡12万石と長浜城(柴田勝豊)
      〔滝川一益〕 :北伊勢+5万石
      丹羽長秀 :若狭+近江国高嶋・志賀の2郡+坂本城 ※元亀元年(1570年) に若狭半国
      〔蜂屋頼隆〕 :+3万石
      〔池田恒興〕 :摂津大坂・尼崎・兵庫で3郡12万石
      〔羽柴秀吉〕 :丹波(秀長) +河内+山城。 備前美作の宇喜多秀家、 丹後の細川家を附属
      堀秀政 :近江中郡+佐和山城、 三法師傅役
    • 7月 :天王山において山崎城の整備開始。 ※大坂城の完成まで居城とした城。
    • 7月8日 :山城で指出検地
    • 9月11日 :妙心寺で織田信長の百日忌(柴田勝家)
    • 10月11~15日大徳寺で信長の葬儀
    • 12月11日 :柴田勝豊が守る長浜城を包囲し、 勝豊降伏
    • 12月16日 :美濃侵攻、 稲葉一鉄ら降伏、 加治木城降伏
    • 12月20日 :岐阜城の織田信孝が秀吉と和睦(三法師の引き渡し)
  2. 【天正11年(1583年)】 (秀吉47歳):

    賤ヶ岳の合戦・柴田勝家滅亡・織田信孝自害・大坂城築城開始
    • 正月 :滝川一益の挙兵。 秀吉、 北伊勢に出兵
    • 3月 :柴田勝家、 北近江に出兵
    • 4月16日 :織田信孝、 岐阜城で挙兵、 17日秀吉大垣城入り
    • 4月19日 :佐久間盛政、 中川清秀の大岩山砦を攻撃、 さらに岩崎山の高山右近陣地を攻撃
    • 4月20日賤ヶ岳の合戦 - 4月23日 :北ノ庄城を囲み、 翌24日勝家を自害させる
    • 4月29日 :尾張国内海に移されていた織田信孝自害
    • 5月 :家康より戦勝記念として 「初花肩衝 」 、 秀吉から 「不動国行 」 と 「白雲の大壺」 を贈る ※あるいは8月
    • 5月25日 :秀吉茶会。 幽斎、 滝川一益、 宗易
    • 7月2日 :秀吉茶会。 宗易、 宗及
    • 7月6日 :秀吉茶会。 宗及
    • 7月7日 :秀吉茶会。 宗易、 宗及、 宗久、 松井友閑、 荒木道薫、 宗二
    • 7月11日 :秀吉茶会。 宗及
    • 7月20日 :秀吉茶会。 宗易
    • 8月13日 :秀吉茶会。 宗易、 宗及
    • 9月大坂城築城開始 (本丸築造)
    • 9月16日 :御道具揃茶会。 宗及、 宗易、 松井友閑、 宗安、 荒木道薫
    • 9月 :妙顕寺跡に妙顕寺城(二条新邸) を築造開始
    • 9月 :大坂平野郷住民の移住、 町割り
    • 10月 :京都に新邸を営む
    • 10月3日 :毛利家からの人質である小早川元総(毛利秀包)、 吉川経信(吉川広家) が大坂城で秀吉に謁見、 天守を見物。 広家は11月に安芸帰国。
    • 10月4日 :秀吉茶会。 荒木道薫、 宗易
    • 10月5日 :秀吉茶会。 前田利家、 滝川一益、 宗易
    • 10月6日 :秀吉茶会。 幽斎、 宗安、 宗甫
    • 10月7日 :秀吉茶会。 瀧川入道(滝川一益)、 宗及
    • 10月15日 :秀吉茶会。 宗易、 宗久、 宗及(茶頭)、 その他
    • 10月15日 :秀吉茶会。 松井友閑、 武田佐吉
    • 10月19日 :秀吉茶会。 筒井順慶、 高山右近、 蒲生氏郷
    • 10月21日 :秀吉茶会。 秀長、 堀秀政、 長谷川秀一
    • 11月11日 :秀吉茶会。 三河衆、 石川数正、 休庵、 森長可、 滝川雄利、 富田知信(一白)、 津田隼人、 荒木道薫、 宗及
    • 12月10日 :終日茶湯。 宗易、 宗及(茶頭)
  3. 【天正12年(1584年)】 (秀吉48歳):

    小牧・長久手の戦い・織田信雄と講和・権大納言叙任
    • 正月3日 :山里曲輪にて秀吉茶会。 宗易、 宗及
    • 2月15日 :秀吉茶会。 宗及
    • 2月21日 :秀吉、 信雄に 「京極茄子」 、 井戸茶碗 「筒井」 、 台天目を贈る
    • 2月24日 :秀吉、 信雄と茶会
    • 3月小牧・長久手の戦い 起こる
    • 3月21日 :大坂城出発、 25日岐阜、 27日犬山着陣。
    • 3月25日 :山崎城を廃城。

      今朝山崎之天守ヲ壊チ取ランガ為、 奉公罷リ越ス

    • 4月9日長久手の戦い (池田恒興・森長可らの支隊が半滅)
    • 6月初旬 :竹ヶ鼻城水攻め
    • 6月8日 :美濃墨俣にて茶会。 宗無、 宗二、 宗及
    • 6月13日 :岐阜城、 28日大坂城に戻る ※7月末~8月初旬、 さらに10月にも大坂城へ戻っている。
    • 10月5日 :秀吉茶会。 宗易、 宗久、 宗及。 参加多数。
    • 10月7日 :山里曲輪にて秀吉茶会。 宗及
    • 10月10日 :大坂屋敷にて茶会。 宗及
    • 10月14日 :山里曲輪にて秀吉茶会。 宗易、 幽斎、 宗二、 安津、 小寺休夢斎
    • 10月15日 :秀吉大坂屋敷にて終日茶会
    • 11月 :信雄と単独講和
    • 11月21日 :秀吉、 従三位権大納言 に叙任(公卿)
    • 11月22日 :秀吉茶会。 宗及
    • 12月1日 :山里曲輪にて秀吉茶会。 宗及
  4. 【天正13年(1585年)】 (秀吉49歳):

    紀州征伐・内大臣叙任・関白宣下・富山の役・禁中茶会
    • 正月17日 :有馬湯治
    • 正月19日 :秀吉茶会。 石川数正、 宗易、 宗及
    • 2月 : 「茶道具之記」 秀吉御物

      天正十三 二月上旬注之 秀吉様御物

    • 2月21日 : 「京極茄子 」 「槌花入」 を信雄に贈る、 22日松井友閑邸
    • 2月24日 :山里曲輪茶会。 信雄、 織田有楽斎
    • 2月25日 :上洛
    • 3月 :仙洞御所造営
    • 3月8日大徳寺総見院で紫野大茶湯大徳寺大茶会)  ※3月5日?
    • 3月10日 :秀吉、 正二位内大臣 に叙任
    • 3月21日 :紀州雑賀征伐に出陣、 千石堀城の戦い、 積善寺城の戦い
    • 4月大坂城本丸完成 - 4月 :本願寺に天満の地を与え移す
    • 4月27日 :下間頼康、 大坂城天守、 風呂を見物
    • 4月28日 :秀吉茶会。 下間頼康、 宗易
    • 4月 :高野山降伏、 4月22日太田城開城で紀州征伐終了
    • 5月2日 :大友宗麟より 「新田肩衝 」 「似たり茄子 」 献上、 「野洲井茶碗」 を贈る
    • 6月四国征伐 開始、 7月25日降伏、 8月6日講和
    • 6月12日 :茶会。 本願寺顕尊佐超(顕如次男)
    • 6月27日 :茶会。 本願寺教如
    • 6月27日 :本願寺顕如、 大坂城天守を見物(秀吉不在)
    • 7月11日 :近衛前久の猶子となり、 従一位、 関白宣下 、 内大臣如元
    • 8月富山の役 (越中佐々成政)
    • 9月8日 :秀吉茶会。 本願寺顕如、 教如、 顕尊
    • 9月27日 : 「骨喰藤四郎 」 献上の礼状
    • 10月 :長宗我部元親・信親、 秀吉に謁見、 天守見物
    • 10月2日 :島津宛私闘禁止書状(惣無事令)
    • 10月7日禁中茶会 。 正親町天皇、 公家
    • 12月21日小早川隆景、 吉川元長が大坂城で秀吉に謁見、 黄金の茶室拝見
    • 12月23日 :大坂屋敷で秀吉茶会。 小早川隆景、 吉川元長
    • 12月24日 :山里曲輪で秀吉茶会。 小早川隆景、 吉川元長
  5. 【天正14年(1586年)】 (秀吉50歳):

    聚楽第建設開始・豊臣姓賜姓・徳川家康上洛・太政大臣叙任
    • 正月16日 :黄金の茶室を禁中小御所に運び茶会。 正親町天皇、 公家
    • 2月聚楽第 建設開始
    • 2月 :大坂城二の丸建築開始(16年完成)
    • 2月 :毛利・大友の和議成立
    • 3月 :大友宗麟上洛
    • 4月 :東山大仏殿建設開始
    • 4月5日 :大友宗麟、 大坂城で毛利との和議御礼と島津討伐を懇願、 茶壺 「志賀 」 献上、 6日黄金の茶室拝見
    • 4月10日 :島津討伐の準備を命じる
    • 4月21日 :上京して内野の地に決める
    • 4月23日 :縄張りを開始
    • 5月 :朝日姫が家康正室として嫁ぐ
    • 6月8日 :秀吉茶会。 scrumptious康政
    • 6月14日 :上杉景勝初の上洛。 黄金の茶室拝見。 従四位下・左近衛権少将に叙任
    • 6月14日 :秀吉茶会。 上杉景勝
    • 6月16日 :山里曲輪で秀吉茶会。 上杉景勝
    • 6月 :島津軍筑前侵攻、 7月10日島津討伐決定、 9月十河・長宗我部軍が大友軍に合流、 10月毛利軍九州上陸
    • 7月25日 :黒田官兵衛ら京都出発、 8月に小倉着、 8月23日に島津勢立花城から撤退、 9月黒田ら立花城入城
    • 9月 :大政所を人質として家康のもとに送る
    • 9月9日 :秀吉、 正親町天皇より豊臣 の姓を賜る
    • 10月 :家康が上洛し和議成立
    • 10月22日 :島津義弘の軍勢が豊後侵攻
    • 10月28日 :神屋宗湛上洛の旅に出発
    • 11月 :家康配下武将に叙任
    • 11月7日 :正親町天皇譲位、 後陽成天皇(周仁親王) 践祚
    • 11月 :堺の濠を埋める
    • 11月18日 :神屋宗湛京都着、 23日24日に津田宗及訪問、 25日後陽成天皇即位式見物、 12月3日大徳寺で出家 「宗湛」 を名乗る
    • 12月1日 :秀吉、 諸国に九州征伐の出兵命令
    • 12月12日 :戸次川の戦い
    • 12月16日 :千宗易茶会。 秀吉出席。 蘭奢待千鳥の香炉
    • 12月19日 :内大臣辞職
    • 12月25日太政大臣宣下
  6. 【天正15年(1587年)】 (秀吉51歳):

    九州征伐出陣・島津義久降伏・バテレン追放令・北野大茶湯
    • 元旦 :九州征伐の部署を伝達し軍令を下す、 正月25日に宇喜多秀家出陣、 2月10日豊臣秀長出陣
    • 正月3日大坂城茶会 。 神屋宗湛出席、 宗久?
    • 正月聚楽第作庭
    • 正月24日聚楽第庭園用の木石を徴収
    • 2月聚楽第落成 - 2月7日 :親王公卿以下、 聚楽第にて歳首を賀す
    • 2月25日 :山里曲輪で茶会、 宗湛
    • 3月1日 :秀吉、 九州征伐に出陣、 25日赤間着、 4月10日筑後高良山、 16日肥後隈本、 19日肥後八代、 25日肥後佐敷、 26日肥後水俣、 27日薩摩国内に進軍
    • 4月2日 :秋月氏より 「楢柴肩衝 」 献上、 道中にて本願寺より 「鴫肩衝」 献上、 大友宗麟より 「臼杵瓢箪」 献上
    • 4月28日 :茶会。 宗湛
    • 5月 :1日出水より阿久根に進軍、 3日川内泰平寺、 6日島津義久出家、 8日島津義久(龍伯) 泰平寺で降伏
    • 5月28日 :肥後佐敷
    • 6月7日 :筑前筥崎八幡宮で九州国分令、 8日宗湛筥崎に参上
    • 6月10日 :博多
    • 6月15日 :対馬宗家に安堵、 朝鮮国王参洛交渉を命ず
    • 6月15日 :島津義久上洛。 八代、 高瀬、 高良山、 24日岩屋、 25日博多。 秀吉に拝謁。 29日下関、 7月10日堺
    • 6月19日 :筑前筥崎にてバテレン追放令 ( 「天正十五年六月十八日付覚」 、 「吉利支丹伴天連追放令」 )、 同日宗湛、 宗室と茶会
    • 6月25日 :宗湛、 筥崎にて茶室を設け秀吉を招き茶会
    • 6月25日 :秀吉朝茶会。 島津義久、 伊集院忠棟
    • 6月 :秀吉茶会。 斯波三松、 小寺休夢斎
    • 7月2日 :筑前筥崎を出発し帰京
    • 7月3日 :赤間ヶ関着、 豊前仕置
    • 7月25日 :秀吉、 大坂城より聚楽第に入る
    • 8月15日 :肥後にて国人一揆
    • 9月13日 :秀吉、 聚楽第に移る
    • 9月17日 :博多の神屋宗湛宛に秀吉の書状が届く
    • 10月1日北野大茶湯 、 「北野大茶湯之記
    • 10月1日 :城井鎮房、 官兵衛留守中の豊前で反乱、 12月下旬降伏。 16年4月20日豊前中津城で謀殺
    • 10月8日 :宗湛上洛、 聚楽第で秀吉に謁見
    • 10月15日聚楽第にて茶会、 宗湛
    • 10月12日 :細川幽斎茶会
    • 10月14日 :秀吉茶会、 宗湛
    • 10月21日 :大坂城山里曲輪にて茶会、 宗及、 宗湛。 終日雑談す
    • 12月 :伊達氏、 最上氏、 後北条氏など関東と奥羽の諸大名に惣無事令 を発令
  7. 【天正16年(1588年)】 (秀吉52歳):

    聚楽第行幸・刀狩令・毛利輝元上洛・北条氏規と対面
    • 1月13日 :足利義昭、 征夷大将軍職を返上
    • 3月5日 :秀吉茶会。 大友義統
    • 3月21日 :秀吉茶会
    • 3月23日筥崎陣屋秀吉茶会 。 輝元、 道三、 宗湛、 宗室、 宗 是、 武士衆
    • 4月2日 :長崎を蔵入地とする(奉行鍋島直茂)
    • 4月14日聚楽第行幸 - 5月15日 :東山に大仏殿居礎の儀
    • 閏5月 :島津家の人質交代。 義久→義弘。 先月5月26日飯野発、 閏5月3日徳之口、 17日鞆の浦、 21日兵庫、 23日堺
    • 閏5月14日 :佐々成政切腹、 15日肥後は加藤清正と小西行長へ
    • 6月4日 :島津義弘、 秀吉に謁見
    • 6月6日 :山里曲輪で茶会。 島津義弘、 伊集院忠棟、 幽斎、 利休、 宗及
    • 6月15日 :上杉景勝二度目の上洛、 従三位・参議に叙任、 島津義弘従五位・侍従に叙任(7月に従四位下)
    • 7月7日 :毛利輝元、 小早川隆景・吉川広家と安芸吉田出発、 23日聚楽第で秀吉に面会、 25日参内(従四位下、 参議に叙任)、 26日浅野長政邸で能、 27日宗及茶会、 28日聚楽第茶会、 30日宗及茶会
    • 7月28日刀狩令 - 7月30日 :豊臣秀長邸御成。 能。
      秀吉、 信雄、 家康、 秀長、 秀次、 宇喜多秀家、 景勝、 輝元、 蜂屋頼隆、 細川忠興小早川隆景、 島津義久、 吉川広家、 龍造寺政家、 立花宗茂
    • 8月1日聚楽第諸大名出仕
    • 8月2日 :豊臣秀次邸御成、 観能。
      3日清水詣、 4日聖護院門跡招待、 5日浅野長政茶会、 7日利休茶会、 12日前野長慶、 津田宗及茶会。 14日豊臣秀次茶会、 15日豊臣秀長茶会、 20日津田宗及茶会
    • 8月22日聚楽第にて北条氏規と対面
      関白、 (公家衆)、 尾張内大臣(信雄)、 駿河大納言(家康)、 大和大納言(秀長)、 備前宰相(秀家)、 越後宰相(景勝)、 安芸宰相(輝元)、 津少将織田上野介(信包)、 丹後侍従(忠興)、 南寸野侍従(長谷川秀一)、 岩倉侍従(毛利秀頼)、 伊賀侍従筒井(定次)、 豊後侍従大友(吉統)、 筑前侍従小早川(隆景)、 新庄侍従吉川(広家)、 北条美濃守(氏規)
    • 8月23日 :秀長邸(輝元公上洛日記)
    • 9月8日 :秀吉大坂城
    • 9月10日 :宇喜多秀家邸御成
      関白、 公方様(足利昌山)、 金吾、 安芸宰相、 大和中納言、 備前宰相、 サツマ侍従、 筑前侍従、 新庄侍従
    • 9月11日 :島津義久大坂発、 薩摩へ帰国
    • 12月3日 : 「太閤御物刀絵図 」 石田本
  8. 【天正17年(1589年)】 (秀吉53歳):

    金銀分配・鶴松誕生・小田原征伐軍令
    • この年 :洛中検地
    • 1月16日 :諸住持、 聚楽第で秀吉に謁し歳首を賀す
    • 1月21日 :浅野長政邸御成
    • 3月聚楽第落書き事件
    • 5月20日 :秀吉、 聚楽第にて陽光院誠仁親王の第六皇子、 八条宮智仁親王以下、 廷臣・諸将に金銀を分かち与える

      於京都聚楽、 從関白殿金銀諸大名衆へ被下、 於近江中納言(秀次) 屋形之御門前ヨリ東へ二町程、 三通りニ並之、 金銀臺ニツム、 諸大夫衆三百人事赤母衣装束ニテ御使ノ使者也、 稀代見物、 古今不可有事也、 驚耳目、
       以上金子四千九百枚
       以上銀子貳万千百枚
        都合二万六千枚歟

    • 5月20日 :諸将に金2000枚、 銀2万5千枚を分配
    • 5月27日 :淀城にて鶴松誕生
    • 5月28日 :琉球王尚寧、 島津義久及び天龍寺桃庵の仲介により上洛、 安谷屋親雲上宗春らと共に聚楽第で秀吉に謁見
    • 8月 :島津義弘、 義久と交代で帰国。 義久上洛。
    • 11月24日 :小田原に宣戦布告、 諸大名に出陣命令
  9. 【天正18年(1590年)】 (秀吉54歳):

    小田原征伐開始・北条氏降伏・奥州仕置・朝鮮使節を引見
    • 正月3日 :朝廷より菊亭晴季を使いにして、 秀吉に太刀・馬を賜わる
    • 正月14日 :妹・朝日姫、 聚楽第で死去(家康継室)
    • 1月15日 :秀忠、 上洛し聚楽第で秀吉に謁見 ※3日駿府発、 13日入京
    • 1月21日 :秀吉、 秀忠に信雄の娘・小姫を娶せ、 この日婚儀を行う
      織田信雄の長女で、 生母は千代御前(北畠具教の娘)。 信勝失脚後に秀吉養女となり北政所に養育されていたが、 この日秀忠の最初の正室となった。 当時6歳とされる。 翌天正19年(1591年) 7月9日死去。 秀忠が継室・江と結婚したのは文禄4年(1595年) である。
    • 正月 :三条大橋を建造
    • 2月~小田原征伐 - 2月 :毛利輝元上洛(留守預) ~翌年2月
    • 3月1日 :秀吉出陣
    • 5月20日 :秀吉生母の大政所、 奈良より聚楽第に戻る
    • 5月29日 :小田原にて茶会。 六角義治、 真木島昭光、 宗凡
    • 7月5日 :北条氏降伏
    • 7月8日聚楽第茶会。 輝元、 春世、 道与、 宗凡
    • 7月9日聚楽第茶会。 桑山重晴邸、 輝元、 宗凡
    • 7月11日聚楽第茶会。 藤堂高虎邸、 輝元、 宗凡
    • 7月13日 :家康を江戸に移す
    • 8月 :母・大政所の墓所として総見院の横に金鳳山天瑞寺を創建し落慶
    • 8月9日 :会津黒川城に入り、 奥州仕置 - 9月1日 :帰洛
    • 9月18日 :毛利邸御成、 「一期一振 」 献上
    • 9月23日聚楽第で茶会。 黒田如水、 宗和、 宗凡
    • 9月23日 :秀吉、 聚楽亭に茶会を催す。 毛利輝元、 加藤清正も茶会を催す
    • 9月27日 :有馬湯治
    • 10月4日 :秀吉茶会。 利休、 小早川隆景など
    • 洛中に御土居構築 - 11月7日 :秀吉、 朝鮮正使黄允吉・副使金誠一・従事官許筬等を聚楽亭で引見する
    • 12月20日 :名護屋出陣に向け、 立花らに準備を命ずる
  10. 【天正19年(1591年)】 (秀吉55歳):

    豊臣秀長没・千利休切腹・鶴松没・秀次に関白を譲る(太閤)
    • 1月14日 :朝廷、 勧修寺晴豊を聚楽第に使わして秀吉に太刀・馬を賜う
    • 1月22日豊臣秀長 、 大和郡山城にて没。 享年52。 ※秀吉姉の子・秀保(秀次の弟。 大和中納言) が継いだ
    • 1月~閏1月頃 :御土居の建設に着手
    • 閏正月 :禁裏六丁町・上京町などを西陣に移転
    • 閏1月8日 :天正少年使節、 宣教師アレッサンドロ・バリニヤーニと共に聚楽第で秀吉謁見する。 ※閏1月28日に長崎港を出港
    • 2月13日千利休を堺へ追放
    • 2月28日千利休切腹 - 3月 :誓願寺を京極に移転
    • 4月20日 :天王寺屋津田宗及没
    • 5月 :御土居ほぼ完成
    • 8月 :来春の唐入りを布告、 名護屋城築造開始
    • 8月5日 :鶴松没
    • 8月7日 :清水寺で3日間籠もる、 のち有馬の湯
    • 8月18日 :大坂帰着
    • 8月23日 :小西行長に名護屋を検分するよう命ず
    • 9月16日 :諸大名に朝鮮出兵の準備を命ず
    • 10月10日 :名護屋城の築城開始
    • 12月 :関白辞職、 太政大臣如元(太閤
    • 12月27日 :秀次、 関白左大臣に叙任
  11. 【天正20年 / 文禄元年(1592年)】 (秀吉56歳):

    文禄の役開始・名護屋城着陣・大政所薨去・伏見指月屋敷着工・文禄改元
    • 1月26日 :行幸、 和歌会
    • 1月27日 :舞を叡覧
    • 1月28日聚楽第より還幸
    • 3月26日 :秀吉出陣
    • 4月13日 :小西行長ら第一陣釜山上陸(文禄の役
    • 4月17日加藤清正ら第二陣釜山上陸
    • 4月18日 :黒田長政、 大友義統ら第三陣、 毛利吉成ら第四陣慶尚道に上陸
    • 4月19日小早川隆景(第五陣)、 毛利輝元(第六陣) 釜山上陸
    • 4月25日 :秀吉、 名護屋城着陣
    • 5月2日 :小西、 加藤ら漢城入城
    • 5月16日 :漢城陥落
    • 5月28日 :名護屋で秀吉茶会。 宗湛
    • 5月29日 :名護屋で秀吉茶会。 宗湛、 友阿弥(茶頭)
    • 6月16日 :小西、 宗、 黒田ら平壌入城
    • 7月5日 :秀次、 聚楽第で能を興行
    • 7月22日大政所薨去 、 同日秀吉、 海路大坂城へ向かう。 海難事故に遭うも毛利秀元により救出され、 秀元は 「厚藤四郎」 を拝領する。 ※ 「水手切り」 の項を参照
    • 7月29日 :秀吉、 大坂城に着
    • 8月4日 :秀吉、 大政所の菩提を弔うため、 高野山に青巌寺を創建する
    • 8月11日 :秀吉、 指月周辺を散策
    • 8月17日 :秀吉、 指月伏見の隠居屋敷の場所を決め、 20日に隠居屋敷の着工を命じる。 24日縄張り、 9月3日工事開始 ※後の指月伏見城の場所
    • 9月18日 :秀吉、 大坂より入京し、 この日参内
    • 9月23日 :秀吉、 京都より大坂城へ戻る
    • 10月1日 :秀吉、 大坂より名護屋へ出陣
    • 10月30日 :秀吉、 筑前博多の神谷宗湛亭の茶会に臨む
    • 11月5日 :前田利家、 秀吉を名護屋陣中に招き、 茶会を催す
    • 11月8日 :名護屋城山里曲輪で秀吉茶会。 宗湛、 御伽衆
    • 11月14日 :名護屋城山里曲輪で秀吉茶会。 宗湛
    • 11月15日 :名護屋城山里曲輪で秀吉茶会。 宗湛
    • 11月16日 :名護屋城山里曲輪で秀吉茶会。 宗湛
    • 11月17日 :名護屋城山里曲輪の秀吉茶会。 宗湛、 堀監物、 ほか三名
    • 11月17日 :秀吉、 肥前名護屋の陣、 大坂城より運ばせた山里の座敷開きを行う
    • 12月8日文禄改元
  12. 【文禄2年(1593年)】 (秀吉57歳):

    正親町上皇崩御・秀頼(捨)誕生
    • 1月5日 :正親町上皇崩御
    • 1月6日 :明軍、 平壌を包囲、 10日小西・宗ら平壌脱出
    • 1月25日 :秀次、 聚楽第にて月次の和歌会
    • 2月22日 :秀次、 名護屋の秀吉に能道具を献上する。 秀吉は4月15日に面を返却している
    • 2月29日 :加藤、 鍋島ら漢城入り
    • 3月9日 :秀次、 聚楽第にて連歌会
    • 4月9日 :秀吉、 名護屋陣中で能を興行
    • 4月17日 :秀次、 聚楽第で能を興行
    • 4月18日 :漢城の日本軍、 明使を伴い漢城を出る
    • 4月30日 :秀次、 嵯峨より聚楽第に戻る
    • 5月10日 :秀次、 聚楽第にて蹴鞠
    • 5月12日 :秀次、 聚楽第にて和歌会
    • 5月15日 :石田、 小西ら明使を伴い名護屋城へ
    • 5月22日 :秀次、 聚楽第で能を興行
    • 6月8日 :秀次、 聚楽第内の山里茶亭に遊ぶ
    • 6月28日 :和議七か条を提示
    • 6月29日 :明使名護屋城を発ち、 朝鮮へ
    • 8月1日聚楽第で八朔の祝い
    • 8月3日 :大坂城二ノ丸にて秀頼(捨) 誕生 - 8月5日 :今井宗久没
    • 8月10日 :秀次、 聚楽第で連歌会
    • 8月13日 :秀吉、 名護屋城で四座の能を興行する
    • 8月15日 :秀次、 聚楽第にて観月会
    • 8月15日 :秀吉、 海路大坂へ
    • 8月25日 :秀吉、 大坂着
    • 閏9月20日 :秀吉、 伏見の隠居屋敷に入る。 同日伊達政宗、 伏見で秀吉に謁見する
    • 閏9月22日 :秀吉、 伏見で茶会。 客は家康、 利家、 会津少将、 有楽斎、 徳善院、 有馬法印
    • 10月1日 :秀吉、 拾(秀頼) と秀次の娘の婚約を決める
    • 10月11日 :秀次、 伊豆熱海より聚楽第に戻る
    • 10月27日 :秀次、 伏見で秀吉に謁見
    • 10月29日聚楽第で観能
    • 11月2日聚楽第で観能
    • 11月18日 :秀吉、 伏見に入る。 秀次、 伏見に来て秀吉に謁見。 のち秀吉尾張で放鷹
    • 11月25日 :秀次、 聚楽第で能を興行
    • 12月5日 :秀次、 聚楽第で能を興行
    • 12月11日 :秀吉、 尾張より伏見に戻る
    • 12月14日 :秀吉、 伏見より大坂城へ戻る
    • 12月29日 :秀次、 聚楽第で羽柴秀保に謁し、 村雲の刀を与える 「村雲当麻」 か
  13. 【文禄3年(1594年)】 (秀吉58歳):

    指月伏見城に入る・吉野山大花見・指月伏見城完成
    • 正月1日 :秀次、 聚楽第で諸将の参賀を受ける
    • 1月3日 :秀吉、 大坂城を秀頼に与えるため、 伏見に築城開始(指月伏見城
    • 2月10日 :秀次、 大坂城より聚楽第に戻る
    • 2月13日 :北政所ら、 指月伏見城の山里の茶亭で花を観る
    • 2月14日 :秀吉、 指月伏見城に入る
    • 2月16日 :秀次、 指月伏見城で秀吉に謁見
    • 2月21日 :秀吉、 秀次を伏見城の山里の茶亭に招き茶会を催す。 のち秀次は聚楽第に戻る。 秀吉は大坂城に戻る
    • 2月27日吉野山大花見 - 3月3日 :秀次、 大和郡山の羽柴秀保邸で観能、 翌日聚楽第に戻る
    • 3月7日 :指月伏見城の普請開始
    • 3月17日 :秀吉、 大坂城より伏見にいたり、 18日に普請を巡見
    • 3月19日 :島津家久(忠恒)、 伏見で秀吉に謁見し、 のち聚楽第で秀次に謁見
    • 3月20日 :秀吉、 古淀城を廃城とする ※天守、 櫓などは指月伏見城へと運ばれた
    • 4月1日 :秀吉、 伏見より京都の施藥院全宗の亭に臨む
    • 4月3日 :秀頼を伏見城に移そうとする、 15日:21日実施と大坂に伝える、 22日:翌年正月まで延期となる
    • 4月14日 :秀吉、 伏見の蒲生氏郷亭に臨む
    • 4月15日聚楽第にて観能
    • 4月20日 :秀吉、 伏見の宇喜多秀家亭に臨む
    • 6月3日 :秀吉、 指月伏見城の普請を見る
    • 6月14日 : 「太閤御物刀絵図 」 毛利本
    • 7月3日 :秀吉、 指月伏見城の普請を見る
    • 8月指月伏見城完成 - 9月9日 :秀次、 伏見に至る。 同日:秀吉、 家康の伏見屋敷に御成
    • 9月18日 :秀吉、 指月伏見城の滝の座敷で茶会を催す
    • 10月18日 :秀次、 聚楽第にて北政所を饗応する
    • 10月20日 :秀吉、 聚楽第に臨む。 諸将これに従う
    • 10月28日聚楽第近くの上杉邸に御成(庖丁藤四郎三本寺吉光
    • 11月3日 :秀吉・秀次、 家康を指月伏見城に招き茶会を催す
    • 11月21日 :秀頼、 伏見城に移徙
    • 11月25日 :秀吉、 伏見の家康邸に臨む
    • 12月20日 :この日までに秀頼、 大坂城より伏見城に移徙
  14. 【文禄4年(1595年)】 (秀吉59歳):

    豊臣秀次切腹(秀次事件)・聚楽第破却
    • 1月3日公家衆、 聚楽第で秀次に歳首を賀す
    • 1月7日 :筒井定次、 伏見で秀吉に祝賀、 ついで聚楽第で秀次に祝賀
    • 2月14日 :秀吉、 鍋島勝茂に豊臣姓を授け、 父直茂に伏見の邸地を与える
    • 2月16日 :秀吉、 大坂より伏見城に入る
    • 2月27日 :秀吉、 秀頼の叙爵を願い出る
    • 3月2日 :後陽成天皇より秀頼に剣・馬が与えられる、 翌日公家衆が伏見城に下向しこれを祝う
    • 3月8日 :秀吉、 聚楽第に臨む
    • 3月25日 :秀吉、 伏見より京都に入る
    • 4月6日 :秀吉、 大坂城で観能
    • 4月8日 :秀吉、 秀頼がはしかに罹かったため、 大坂から伏見に入る
    • 4月10日 :秀次、 伏見にいき、 同日聚楽第に戻る
    • 4月21日 :秀吉、 伏見より大坂に戻る
    • 5月12日 : 「太閤御物刀絵図 」 大友本
    • 5月21日 :秀次、 伏見で能興行。 秀吉・北政所らこれに臨む
    • 7月3日 :秀吉、 聚楽第に三成・長盛を派遣し、 秀次を譴責する
    • 7月8日 :秀吉、 前田玄以らを聚楽第に派遣し、 秀次を伏見木下大膳亮の邸にいれる。 同日、 関白・左大臣の官職を解き、 高野山に追放する

      関白左大臣・正二位、 豊臣秀次、 七月八日、 於高野山出家

    • 7月15日秀次切腹 - 8月2日 :三条河原で秀次側室・侍女ら処刑
    • 8月22日 :秀吉、 伏見城に入る
    • 8月23日 :家康京都より伏見に至る
    • 8月聚楽第の破却  ※指月伏見城および支城である向島城に運ばれた
    • 9月8日伊達政宗、 伏見で秀吉に謁見
    • 閏9月26日 :城下町の縄張り

      今日惣之屋敷割、 浅弾、 民法、 増右、 長大、 山橘、 我等躰に仰付けられ候

    • 10月15日 :吉川広家、 朝鮮より帰陣し、 伏見で秀吉に謁見。 のち出雲富田へ帰国
    • 11月2日 :秀吉、 伏見より京都に入る。 家康もこれに従う
    • 11月8日 :秀吉、 病気のため参内を中止し、 伏見に戻る
    • 12月18日 :秀吉、 伏見より大坂城へ戻る
  15. 【文禄5年 / 慶長元年(1596年)】 (秀吉60歳):

    秀頼参内・慶長伏見地震・木幡山伏見城着工・「慶長」改元
    • 1月2日 :秀吉、 伏見城の秀頼に爪刀を贈る
    • 1月17日 :島津義弘大坂着
    • 2月14日 :秀吉、 大坂城で病気。 この日伏見に戻る
    • 2月 :秀吉、 諸大名に支城・向島城のち苦情を命じる
    • 4月7日 :秀吉、 大坂城より伏見城に戻る
    • 4月27日 :秀吉、 伏見の長宗我部元親邸に臨む
    • 5月8日 :家康正二位・内大臣、 利家権大納言
    • 5月9日 :秀頼上洛
    • 5月13日 :秀頼参内(4歳)
    • 5月15日・17日 :秀吉、 禁中観能を興行し叡覧に供す。 秀吉・秀頼、 伏見に戻る
    • 5月25日 :朝廷、 勅使を伏見に派遣し歳首を賀す
    • 6月7日 :秀頼、 祇園会見物
    • 7月25日 :秀頼・家康、 上京。 のち伏見に戻る
    • 閏7月11日 :秀吉、 伏見の秀忠邸に臨む。 家康も同席
    • 閏7月12日深夜慶長伏見地震 - 閏7月13日 :秀吉、 木幡山に仮小屋を作り、 避難する
    • 閏7月15日 :木幡山伏見城の作事に着手
    • 8月20日 :秀吉、 伏見の家康邸に臨む
    • 9月2日 :明使大坂城入り。 再び朝鮮出兵を命ず
    • 10月 :サン=フェリペ号事件
    • 10月10日 :木幡山伏見城の本丸完成
    • 10月27日「慶長」 改元 - 11月18日 :秀頼、 大坂城本丸へ移徙
    • 11月28日 :秀吉および北政所、 伏見山御殿へ移徙
    • 12月8日 :再び禁教令公布
    • 12月17日 :秀頼の大坂移徙総礼。 拾、 元服して秀頼 と称す。  ※諸説あり。 遅くともこの日まで
  16. 【慶長2年(1597年)】 (秀吉61歳):

    京都新城着工・木幡山伏見城完成・慶長の役・京都新城完成・秀頼元服
    • 正月1日 :秀吉、 伏見より大坂城に赴く
    • 正月京都新城(太閤御所・太閤上京御屋敷) 着工
      当初1月23日に三条坊門より四条坊門まので四町、 東洞院より東に四町の範囲と定め立ち退きを命じている。 その後4月26日には土御門より南に六町、 東は京極より西へ三町と定め直している
    • 2月24日 :秀吉、 伏見城で茶会
    • 2月 :イエスズ会関係者処刑
    • 3月21日 :秀吉、 大坂より伏見に至る
    • 3月29日 :秀吉、 伏見城の工事を督励する
    • 4月2日 :秀吉、 伏見の前田利家邸に臨む
    • 4月28日 :秀吉、 伏見城に戻る
    • 5月1日 :秀吉、 伏見の青木一矩邸に臨む
    • 5月4日木幡山伏見城 の天守および殿舎完成し、 秀吉、 この日移徙

      五日大雨、 伏見御城殿守ノ丸へ昨日御移徒

    • 5月14日 :秀頼、 大坂城から伏見城へ移徙
    • 5月11日 :秀吉、 鍋島直茂らを伏見城山里茶亭に饗応する
    • 5月17日 :朝廷、 伏見城に勅使を派遣し、 歳首及び移徙を賀せしめる
    • 5月20日 :秀吉、 伏見城で能興行
    • 6月慶長の役 - 6月 :秀吉、 大和比蘇寺の塔を山城伏見城に移す
    • 6月27日 :秀吉、 諸門跡を招いて伏見向島で饗応する
    • 7月13日 :秀吉、 伏見の家康邸に臨む
    • 7月27日 :秀吉、 伏見城で能を興行し、 呂宋国使を饗応する
    • 8月京都新城完成 - 8月28日 :秀吉、 伏見城に戻る
    • 9月24日 :秀吉、 伏見の大谷刑部邸に臨む
    • 9月25日 :秀吉、 伏見より上京
    • 9月26日京都新城が完成したため、 秀吉、 秀頼・家康らと入京、 秀頼移徙
    • 9月28日 :秀頼、 参内して元服。 同日従四位下・左近衛少将に叙任さる
    • 9月29日 :秀頼、 左近衛中将に進む
    • 9月30日 :秀吉・家康、 伏見に戻る
    • 10月 :木幡山伏見城の茶亭完成
    • 10月1日 :秀吉上洛
    • 10月8日 :秀吉・家康、 伏見に戻る
    • 10月12日 :秀吉及び秀頼、 伏見に戻る
    • 10月20日 :秀吉、 伏見の京極高知邸に臨む
    • 10月22日 :秀吉・秀頼、 伏見の前田利家邸に臨む
    • 10月26日 :秀吉、 伏見の伊達政宗邸に臨む
    • 10月27日 :秀吉、 伏見の京極高次邸に臨む
    • 12月23日 :毛利輝元、 伏見城の秀吉に謁見
  17. 【慶長3年(1598年)】 (秀吉62歳):

    醍醐の花見・豊臣秀吉薨去・遺物配分
    • 3月15日醍醐の花見 - 4月1-日 :秀吉、 伏見の家康邸に臨む
    • 4月15日 :秀吉・秀頼、 伏見より入京。 家康もこれに従う
    • 4月20日 :秀頼参内、 従二位下・権中納言に進む
    • 4月24日 :秀頼、 京都新城公家衆の祝賀を受ける
    • 5月1日 :秀吉上洛。 のち秀頼と共に伏見城入り
    • 5月5日 :秀吉、 発病
    • 5月20日 :大坂城の普請を開始
    • 6月 :前田利家、 伏見に赴き、 秀吉の病を見舞う
    • 7月15日 :秀吉、 諸大名に秀頼への忠誠を誓わせる
    • 8月1日 :秀吉、 伏見で能興行
    • 8月5日 :秀吉、 伏見城・大坂城の城番を定める
    • 8月11日 :朝日殿死去(北政所ねねの生母
    • 8月18日豊臣秀吉、 伏見城で薨去 - 伏見にて形見分け : 「秀吉公御遺物
    • 9月7日 :阿弥陀ヶ峰に八幡大菩薩堂築造開始
  18. 【慶長4年(1599年)】 (秀頼7歳):

    秀頼が大坂城へ・前田利家薨去・秀吉に豊国大明神の神号
    • 正月元旦 :伏見城にて年賀の礼
    • 正月10日 :秀頼、 秀吉の遺言に従い大坂城へ移徙 - 閏3月3日前田利家薨去 - 4月13日 :阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬
    • 4月16日 : 「豊国大明神 」 の神号
    • 4月19日 :正一位の神階
    • 8月 :前田利長、 家康の勧めにより加賀帰国
    • 9月7日 :家康、 重陽の節句の挨拶で大坂城入り。 同日家康の暗殺計画が露見
    • 10月2日 :暗殺計画の処分下さる
  19. 【慶長5年(1600年)】 (秀頼8歳):

    家康会津征伐へ・石田三成挙兵・関が原の戦い・家康大坂城入城
    • 2月22日 : 「太閤御物刀絵図 」 中村本
    • 2月 :上杉景勝、 領内諸城の補修を命ず
    • 3月 :上杉景勝、 神指新城の建築を命ず
    • 4月 :家康、 上杉景勝に対して諸城補修の申し開きをするよう上洛命令を出す
    • 6月上旬 :上杉景勝の上洛中止
    • 6月15日 :家康、 秀頼に面会、 16日:伏見入城、 7月1日江戸着
    • 7月15日 :毛利輝元、 広島発、 19日大坂城入城
    • 7月19日伏見城の戦い - 7月19日 :秀忠、 江戸城より会津に出陣。 21日、 家康同
    • 7月25日小山評定 - 8月1日 :伏見城落城、 8月3日加賀大聖寺城落城
    • 8月23日 :岐阜城の織田秀信が東軍に降伏
    • 8月26日 :東軍、 大垣城包囲。
    • 9月1日 :家康、 江戸城発、 9日岡崎、 10日熱田、 13日岐阜、 14日赤坂
    • 9月3日 :犬山城開城、 同日細川幽斎の籠もる田辺城に勅使が出立、 9月12日田辺城開城
    • 9月15日関が原の戦い - 9月20日 :大垣城開城
    • 9月25日 :福島・黒田ら大坂城入城、 毛利輝元退去
    • 9月27日 :家康、 大坂城入城
    • 10月1日 :石田三成・小西行長・安国寺恵瓊、 京六条河原にて斬首
  20. 【慶長6年(1601年)】 (秀頼9歳):

    秀頼、権大納言叙任・二条城築造開始
    • 3月27日 :秀頼、 権大納言に任ぜらる
    • 5月 :家康、 大宮押小路に二条城 (元離宮二条城) の築城を開始
    • 秀頼 : 「義元左文字 」 を家康に贈る
  21. 【慶長7年(1602年)】 (秀頼10歳):

    1月:秀頼、正二位叙任・5月:二条城の殿舎・天守着工
    • 1月6日 :秀頼、 正二位に叙される
    • 5月二条城(元離宮二条城) の御殿・天守の造営着工
  22. 【慶長8年(1603年)】 (秀頼11歳):

    家康、征夷大将軍に補任・二条城落成・秀頼と千姫が婚姻
    • 2月12日 :徳川家康、 伏見城にて征夷大将軍 補任の宣旨
    • 3月二条城落成  ※天守は慶長11年(1606年)
    • 3月12日二条城入城、 25日拝賀の礼のため参内
    • 4月22日 :秀頼、 内大臣に任ぜらる
    • 7月秀頼、 千姫(秀忠娘) と婚姻
  23. 【慶長10年(1605年)】 (秀頼13歳):

    秀頼、右大臣叙任
    • 10月 :秀頼、 右大臣に任ぜらる

      内大臣正二位豊秀頼、 四月十二日任右大臣

  24. 【慶長12年(1607年)】 (秀頼15歳):

    秀頼、右大臣辞任(のち左大臣叙任か)
    • 正月11日 :秀頼、 右大臣を辞す ※慶長13年(1608年) 4月28日付の左大臣の宣旨が存在する(押小路家文書)
  25. 【慶長16年(1611年)】 (秀頼19歳):

    後水尾天皇践祚・二条城にて家康と秀頼が会見
    • 3月27日 :後陽成天皇譲位、 政仁親王(後水尾天皇) 践祚
    • 3月28日二条城にて会見 - 4月12日 :後水尾天皇の即位式

系譜

直系子孫

  • 秀吉が妻との間にもうけた子供とその系統

南殿

  • 詳細は不明だが、長浜城主時代に南殿と呼ばれる女性との間に子を成したとされる。
    秀吉
     ├───石松丸秀勝(夭折)
    南殿

羽柴秀勝

石松丸(いしまつまる)
石松丸秀勝
6歳で夭折

  • ※秀吉は、この初めての子につけた「秀勝」という名前を、他に2名の人物に与えている。ひとりは織田信長の四男(於次丸、於次秀勝)で、もう一人は三好吉房の次男(小吉、小吉秀勝)である。

    三好吉房は、秀吉の姉「とも」と婚姻していた人物。豊臣秀次、豊臣秀勝、豊臣秀保の実父。
    通称弥助。出自についてはよくわかっていないが、馬貸しか馬丁だったとされる。義弟・秀吉の出世に伴い立身し、後に長子・秀次が阿波三好一族の三好康長の養子となると、秀次の実父である吉房も三好姓を称したとされる。なお実際に残る文書では「三好」とは署名しておらず、武蔵守や三位法印、三位法印一路、三位法印常閑、建性院常閑などと署名する。秀次事件で連座し、所領は没収され讃岐に流された。慶長3年(1598年)に秀吉が没すると赦免され、京都に戻り晩年は法華行者となったという。慶長17年(1612年)下野足利で没、享年79という。
    1. 石松丸〔秀勝〕:長浜城主時代の秀吉の実子。夭折。
    2. 於次〔秀勝〕織田信長の四男。内藤元種の娘(毛利輝元の養女)と婚約するが子を残さずに病没。
    3. 小吉〔秀勝〕三好吉房の次男。浅井長政娘(お江、秀忠との婚姻前)との間に完子を残し、この系統がのちのちまで続いている。

淀殿(茶々)

  • 諸説あるが、淀殿(浅野長政子、母は信長妹お市の方)との間に「鶴松」、「秀頼」の2人の子を設けた。
    秀吉
     ├──┬棄丸(鶴松、夭折)
    淀殿  
          和期の方
           ├──国松(六条河原で斬首)
        秀頼(拾丸)
            ├──天秀尼(千姫養女)
           小石の方

豊臣鶴松

棄丸(すてまる)
生来病弱で、数え年3つで死去

豊臣秀頼

拾丸(おひろい)

  • 秀頼の子供
    1. 国松:母は和期の方(名は伊茶。渡辺五兵衛娘)。大坂城落城後に六条河原で斬首。
    2. 天秀尼:俗名は不明だが、千代姫または奈阿姫ともされる。母は小石の方(おいわのかた。成田助直娘)。大坂城落城後に千姫の養女。後に鎌倉東慶寺に入れられ天秀尼と称す。

母系子孫

  • 秀吉の兄妹の子供とその系統
     藤吉郎秀吉
     日秀尼─┬─秀次─┬仙千代丸(三条河原で処刑)
              百丸
              十丸
              土丸
              露月院誓槿大童女
              お菊 (大坂夏の陣後、紀伊南の河原で処刑)
              不明 (梅小路家に嫁ぐ)
              隆清院(真田信繁の側室)
          
          
      家康──│─徳川秀忠
            ├─┬千姫(秀頼室)、珠姫(前田利常室)、勝姫(松平忠直室)、初姫(京極忠高室)
             徳川家光、徳川忠長、徳川和子(後水尾天皇中宮)
    信長     
    ─┬茶々    九条幸家  二条康道(二条家第16代当主)
       ├──│─お江   ├────┼九条道房(九条家第19代当主)
       初   ├──豊臣完子  序君  (東本願寺宣如光従室)
          ├─秀勝        通君  (西本願寺良如光円室)
                     松殿道基(松殿家第12代当主)
                     栄厳  (東大寺別当、随心院住持、大僧正)
                     日怡  (瑞龍寺2世)
          └─秀保(享年17)
             
       豊臣秀長おきく

日秀(とも)

日秀尼
父は木下弥右衛門、母は大政所。秀吉姉。
弥助(後の三好吉房)に嫁ぎ、1568年(永禄11年)に秀次、1569年(永禄12年)に秀勝、1579年(天正7年)に秀保を産む。

秀次

父は三好吉房、母は日秀尼
秀吉養子、殺生関白。
幼名治兵衛(じへえ)、通称孫七郎(まごしちろう)。
秀吉の命により阿波の三好康長に養子入りして三好信吉(みよし のぶよし)と名乗るが、後に羽柴秀次と名乗り天正19年には関白、豊臣氏の氏長者。
文禄2年(1593年)に秀頼が生まれたことにより秀吉から疎まれ、文禄4年(1595年)7月に高野山に追放、青巌寺にて切腹。

  • 秀次の子供
    1. 仙千代丸:仙千代丸(せんちよまる)。母は尾張衆日比野下野守娘 於和子。他の秀次の一族とともに三条河原で処刑
    2. 百丸:母は山口少雲娘 お辰の方
    3. 十丸:母は北野松梅院娘 阿左古の方
    4. 土丸:竹中重定(貞右衛門)娘 お長の方
    5. 露月院誓槿大童女:母は毫摂寺善助娘 お亀の方(中納言局)
    6. お菊:淡輪隆重娘(淡輪重政の姪) 小督局。祖父の弟の子供である後藤興義に預けられた。成人した菊は、元和元年(1615年)4月20日に紀伊国の代官である山口安弘/山口安弘喜内の嫡男、山口朝安/山口朝安兵内の元に嫁いだ。大坂夏の陣、樫井川の合戦において夫の朝安が討ち死にし、お菊も紀伊南の河原で処刑。
    7. 隆清院:真田信繁の側室

小吉秀勝

父は三好吉房、母は日秀尼
幼名小吉
隻眼であったとされる
秀吉養子
羽柴秀勝(織田信長四男、秀吉養子)死後、丹波国亀山城主となり「丹波少将」と呼ばれる。
文禄元年(1592年)、従四位下参議に任じられ、「岐阜宰相」。
文禄の役に九番隊の大将として外征するが、朝鮮国の巨済島にて病死。
正室のお江(浅野長政娘、母はお市の方。小吉秀勝死後に徳川秀忠に嫁す)との間に完子を残す。

  • 豊臣完子

    父は豊臣秀勝(小吉秀勝)、母お江
    豊臣完子(とよとみさだこ)
    文禄4年(1595年)に母の江が徳川秀忠と再々婚したため、淀殿に引き取られ養われる。
    慶長9年(1604年)6月3日九条忠栄(後の幸家)に嫁ぐ。
    慶長13年(1608年)に忠栄が関白に任官し、完子は北政所となる。
    九条忠栄との間に7人の子を残している。
    母のお江が徳川秀忠に嫁したため異父弟妹に千姫、珠姫、勝姫、初姫、徳川家光、徳川忠長、徳川和子がいる。

    1. 長男・二条康道:慶長12年(1607年) - 寛文6年(1666年)。二条家第16代当主
    2. 次男・九条道房:慶長14年(1609年) - 正保4年(1647年)。九条家第19代当主
    3. 長女・序君(生没年不詳):東本願寺宣如光従室。琢如らの母
    4. 次女・通君:慶長18年(1613年) - 寛永9年(1632年)。西本願寺良如光円室
    5. 三男・松殿道基:慶長20年(1615年) - 正保3年(1646年)。松殿家第12代当主
    6. 四男・栄厳:元和8年(1622年) - 寛文4年(1664年)。東大寺別当、随心院住持、大僧正
    7. 三女・日怡:寛永2年(1625年) - 寛文4年(1664年)。瑞龍寺2世
  • この豊臣完子が九条家に嫁いで子をなしたことにより、現代の皇室にまで(秀吉の姉とも、浅井長政、お市の方らの)血流が残ることとなった。

ねね(高台院)経由の系図

                        ┌─木下勝俊(長嘯子)
 杉原家利──┬─杉原家次───┬─杉原長房  ├─木下利房(足守藩2代藩主)
               └─おあこ   ├─木下延俊(豊後日出藩初代藩主)
       ├─朝日殿こひ     ├────┴─小早川秀秋(秀俊)
         ├─────┬─木下家定(足守藩初代藩主)
        杉原定利   ├─────────やや
       └─七曲殿ふく  └─北政所ねね    ├───┬浅野幸長(初代和歌山藩主)
          ┝━━━━━━━━│━━━━━━浅野長政 浅野長晟(2代和歌山藩主)
       ┌─浅野長勝                 浅野長重(笠間藩主)
       └────浅野長政             豊姫(杉原長房室)
         木下弥右衛門               智相院(松平定綱室)
          ├─────┬─豊臣秀吉
         なか     └─日秀    ┌─豊臣秀次(関白)
                  ├────┼─豊臣秀勝
                 三好吉房    ├───豊臣完子(九条幸家室)
                        お江(のち徳川秀忠室)
                       └─豊臣秀保(豊臣秀長養子)
          ├───────豊臣秀長
         竹阿弥



エピソード

豊臣氏と羽柴氏

  • 出世魚のように名前を変えていったことがよく知られているが、これは当時の社会通念でもあり多くの武将も苗字を変えたり、本姓を変える(与えられる)ものも多数いた。現代のような戸籍制度のもとで管理されている氏(うじ)とはかなり概念が異なる。有名なところでは、明智光秀が信長より「惟任」姓を与えられて名乗っており、逆にには長秀は「惟住」姓を断った(五郎左のままで結構)というエピドードはよく知られている。
  • 室町以降、本姓は朝廷より叙位される時だけのものとなり、一般の武士では本姓が不明なものも多数おり、叙位を受ける際に慌てて付けている例も多数ある。
    例えば鎌倉時代の「北条政子」として知られる人物は、実際には「北条政子」を名乗った形跡がない。そもそも「政子」自体が、朝廷から叙位されるにあたって公式文書に記載するための本姓と名前が必要となり、父の時政の一字を受け(偏諱)て「平政子」と名乗ったものである(平は北条氏の本姓。「建保六年十月大廿六日乙丑。晴。京都使者參。去十三日。禪定三品令敍從二位給云々」)。当時は、女性が人前で実名を名乗らないのが社会通念であり、よほどの人物でない限り朝廷の公式記録には残らないため、それ以前の実名は不明である。通常は、「鎌倉二品禅尼」「二位尼」「尼御台所」などと呼ばれていたようである。そもそも当時は妻問婚であり、頼朝の妻という概念はあたらないが、「百錬抄」にも「政子〔平・北条・源頼朝室〕 建保六・四・十四(頼朝後家尼) 七・十三(故頼朝卿後家二品)」などと記される。
     また春日局で知られる人物も「春日局」は朝廷から賜った称号であり、それ以前は「福」と呼ばれていたようである。これも後年将軍家光の疱瘡治癒祈願のために伊勢の神宮に参拝し、その後上洛して御所への昇殿をはかった。しかし無位無官では昇殿できないため、血族(福は三条西公条の玄孫)である三条西公国の養女になろうとしたが既に他界していたため、やむをえずその息子・三条西実条と猶妹の縁組をして公卿三条西家(藤原氏)の娘となり参内する資格を得、「三条西 藤原福子」として昇殿を果たし、後水尾天皇や中宮和子に拝謁した。この時に従三位の位階と「春日局」の名号を賜っている。
     北条政子が「北条政子」とされ始めたのは明治以降とされる。そもそも当時の支配者階級の人間ですら実名で呼ばれることは稀で、男女問わず役職(役割)名で呼ばれていた。源頼朝にしろあくまで「鎌倉殿」であって「頼朝」などと呼ばれてはいなかったと思われる。現代のテレビドラマで実名を呼ばわるのは、そうしないと社会科でしか歴史を習ったことがない一般視聴者に誰のことかわからないためである。

苗字

木下氏(苗字)

  • 秀吉ははじめ「木下」を名乗っていた。
  • もっともこれは、妻ねねの兄杉原家定が母方の名字「木下」に改称したのを借りたものであるともいわれる。永禄8年(1565年)11月2日付文書で、「木下藤吉郎秀吉」の署名があるのが初出とされる。
  • 木下氏を最後に使った時期については諸説あったが、近年(2015年7月)に元亀4年(1573年)5月24日付文書が見つかっている。

羽柴氏(苗字)

  • 羽柴氏を使ったのは、それ以降7月20日の間とされる。

  • 元亀4年(1573年)7月20日付文書で「羽柴藤吉郎秀吉」と署名している。

    其比信長の心に叶ひのゝしる柴田修理亮勝家。丹羽越前守長秀とかやいひしかば。其人の名字を一字づつたまはらんとて。丹羽の羽に柴田の柴をそへ。羽柴筑前守と改給しとなり。

  • 親族以外に羽柴氏を与え始めたのは天正10年(1582年)頃からとなっている。

本姓

平氏(本姓)

  • この頃は本姓として「平氏」を名乗っていた。
  • これは主君である織田信長(平氏)の本姓を倣ったものとされる。
  • その期間は、公卿補任の天正11年(1583年)の項に「参議従四位下」としてはじめて記載されてから、関白になる直前の天正13年(1585年)に「内大臣正二位」に叙任されるまで、となっている。

藤原氏(本姓)

  • 天正13年(1585年)7月11日、関白に就任するにあたり、前関白・近衛前久の猶子となり、本姓を平氏から藤原氏に改めている。

豊臣氏(本姓)

  • 「押小路家文書」では、「豊臣氏」を朝廷より下賜され名乗ったのは天正13年(1585年)9月9日付(宣旨)。

    ただし「公卿補任」では天正14年の項に月日不詳として書かれている。公卿補任で「豊秀吉」となるのは天正15年(1587年)からである。実際に改姓したのは太政大臣就任時ともされている。
  • 続いて後陽成天皇の即位に合わせ、天正14年(1586年)12月には太政大臣に昇進する。

  • 天正19年(1591年)に鶴松が病死すると、甥の秀次(内大臣)を養子として関白の地位を譲り、自分は太政大臣在任のまま太閤殿下として実権を保持し続けた。

その後の豊臣氏
  • 秀吉の死後も秀頼没時まで豊臣姓の使用は続いている。
  • 大名においても、家康の将軍任官と同じ慶長8年(1603年)、池田輝政が「豊臣朝臣輝政」として右近衛権少将に任じられている。また土佐守に任官された山内一豊も「豊臣朝臣一豊」としての叙任である。さらに加藤清正が主計頭から肥後守へ改めているがこの時は「平朝臣清正」から「豊臣朝臣清正」に改めている。
    • その後も、池田利隆(輝政の長男・輝直)、加藤忠正(清正の次男・清孝)、福島忠勝(正則の次男・忠清)なども豊臣氏として任官を受けている。
    • 大坂の役で秀頼滅亡後、福島正則の福島家では、羽柴から福島に名字を改めるとともに、旧姓の平氏ではなく新たに藤原氏に改めている。
  • 秀吉の正妻・高台院の兄弟たち及びその子孫たちは、羽柴から木下に名字を改めたものの、豊臣の氏はそのまま名乗り続けている。木下利次(ねねの実兄・木下家定の次男)は、高台院の養子となり豊臣の社稷を相続することが許されている。

赤影

  • この豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎と名乗っていた頃に、琵琶湖の南に金目教という宗教が流行っており、飛騨の里から赤影、白影、青影の三人の忍者を呼び寄せる。
  • これが往年の特撮TV番組「仮面の忍者 赤影」である。

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