切刃貞宗
名刀レスポンシブ1
切刃貞宗(きりはさだむね)
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相州貞宗の作
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享保名物帳所載
切刃貞宗 長二尺三寸六分半 代三千貫 御物
表裏樋并影樋、裏切刃也、樋の下に梵字剣あり、横手より二寸五分程に切込あり、元禄十年の極めなり、昔切刃と申す名物の一尺五分五百枚の脇差あり、大坂にて焼る、右の御刀御城御帳に名物の様に記し有之、脇差は無之に付名物と心得候ても可然也、紀伊宰相殿より上る、綱吉公元禄十年卯月御成の刻なり、大納言殿よりは島津正宗、光包三千貫の八寸七分御脇差上るなり -
差表に棒樋と腰だけの添え樋。裏に素剣と梵字、上は棒樋。横手から二寸五分ほど下に切込。
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「裏切刃也」とは、差表が鎬造りなのに対して差裏が切刃造りになっていることを示す。
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「切付け貞宗」
由来
- 享保名物帳によれば、横手より二寸五分ほどの下のチリ(棟と棒樋の間)に切込みがあり、切刃造の造り込みに由来するとされる。
来歴
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紀州徳川家所蔵。元禄10年(1697年)の本阿弥家留帳に載る。
紀伊大納言
金百五十枚 片刄貞宗
二尺三寸六分半、表裏樋、裏添樋、裏切刄、樋の下に梵字劔あり、表鋩子の上疵あり、横手より二寸五分程下ちりに疵を切込みにしたるものあり、裏中程より三寸ばかり下かうに大なる折目あり、右貞享元年同所より來り右の極あり、此度證文遣はす
(留帳) -
元禄10年(1697)4月11日に紀州徳川家に将軍御成の際、紀州大納言綱教から将軍綱吉へ、備前真守とともに献上された。
庚申、綱吉、和歌山城主権大納言徳川光貞の邸に臨む、綱吉、光貞の第三子頼職、第四子頼方に封地三万石を賜ふ、
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代三千貫または百五十枚。のち二百枚にあがる。
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昭和11年(1936年)9月12日に重要美術品指定。徳川家達公爵所持。
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戦後徳川家をでて重要文化財指定。
切羽貞宗(きりはさだむね)
由来
- 「切刃」の号は造り込み(刀の形式)の片切刃に由来する。
来歴
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一之箱 切刃正宗
御物、さだ宗、きりは貞宗、長さ一尺五分半、むねきり。切刃貞宗無銘(太閤御物刀絵図)
壱尺五分半 切端貞宗(大坂御物名物刀剣押形) -
秀頼所持のとき、大坂落城で焼けるが再刃され、将軍家所蔵になる。この時の熱で鎺が溶けたものがなかごに付着している。
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その後、切刃貞宗は水戸徳川家に秀忠遺物として下賜される
(寛永9年正月)この日御遺物とて、尾邸へ会津正宗の御刀並一休面壁の掛幅、水邸へ切刃貞宗の御さしぞへ、俊成定家両筆の掛幅を賜ふ
御遺物の次第
一、会津正宗御脇指・面壁御掛物圓悟讃 尾張大納言
一、寺沢貞宗御脇指・初祖菩提西王一山 紀伊大納言
一、切刃貞宗御脇指・俊成定家両筆の掛物 水戸中納言 -
水戸頼房から、讃岐高松藩主の頼重に伝わる。
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現在香川県立ミュージアム所蔵。
田中吉政伝「切刃」
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豊臣秀次の家老であった田中吉政にも「切刃貞宗」が伝わったという伝承もある。
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田中吉政は関ヶ原の戦いでは東軍に所属し、東軍勝利後、三成の居城佐和山城を宮部長煕と共に搦手から突入して落城させるとともに、伊吹山中で逃亡中の石田三成を捕縛する大功を挙げた。
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この時に三成が佩用していた貞宗を譲られたという。
兵部大輔(吉政)は途中へ出向ひ慇懃に挨拶有ければ三成も面色打とけて、一戦に利を失言語同断無念なり。去ながら太閤への報恩と思へば今はさまでの後悔なし。又今日迄身を離さず秘蔵せし脇指は、先年太閤より給りたる切刃貞宗の珍器也。筐にまいらすとて田中に授く。
二十三日の晩吉政、三成を召連大津の御陣へ参着有ければ、家康公殊外に御悦喜有。
石田を本多上野介正純へ預られ医師を御附御小袖等あたへられしと也。其後、田中兵部大輔を御前へ召て御辺は江渡関ヶ原にて戦功あらはし、今又石田を擒にせらるる事一方ならぬ功労なりと仰らる。田中は三成を召捕せたる御物語の序に、彼の指たる脇指は一年太閤より給りたる切刃貞宗(或は切刃兼真云)の名刀也とて、此度某にあたへ候しが囚人の引出物なれば、清かたき御事也と有ければ、家康公申さるる所は、さる事ながら今更石田の志をむなしくせらるるもいかが也。其上太閤の手にふれ給ひし物とあれば、かたくかたく我等の差図に任て其方所持せらるべしとぞ宣ひける。(田中興廃記) -
このとき登場する「切刃貞宗」は、死後遺物として将軍家に献上されたともいう。そうするとこの貞宗は、享保名物帳の「二尺三寸六分半」の将軍家御物となる。
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また田中家伝では、三成から贈られたのは手掻包永の短刀で、吉政ではなく子の田中吉次となっている。さらに秀吉から形見にもらった「切刃兼真」(包真)であるともいうが、秀吉公御遺物では「守家」となっており、これも誤伝と思われる。
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さらに、ここで登場する「切刃貞宗」と別に、「石田貞宗(寸延短刀)」と呼ばれる貞宗があり、それは榊原家に伝来した。こちらは現存し重要文化財指定を受け東京国立博物館所蔵となっている。
田中吉政はこの三成捕縛の大功により、三河岡崎10万石から、一躍筑後一国柳川城32万石を与えられ国持ち大名となった。しかし子の代に嗣子がなく柳川藩主の田中家は断絶し、柳川には立花宗茂が封じられ幕末を迎えている。立花宗茂は、高橋紹運の長男として生まれる。高名な立花道雪の娘誾千代の婿となり、立花家を継ぐ。ただし誾千代とは険悪な仲だった上に子に恵まれず、道雪の死後程なくして、二人は別居したという。
鳥取池田家伝「切刃貞宗」
脇差
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池田輝政嫡子、利隆が慶長10年(1605年)3月に侍従右衛門督に任じられたとき、秀忠より拝領した。※ただし豊臣姓
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同年に徳川秀忠の養女鶴姫(榊原康政の娘)を正室に迎えている。
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のち弟の輝興が播磨赤穂を与えられて別家になったので、これを与えた。
池田輝政─┬利隆──光政──綱政
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├忠継
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├忠雄──光仲─┬綱清
│ └清勝(政弘養子)
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└輝興──政種──政弘━(末期養子)━清勝 -
元禄9年(1696年)7月29日池田清勝が11歳で早世し、その妹を因幡鳥取藩2代藩主池田綱清が引取り、貞宗も鳥取へ移った。
- 池田清勝の実兄が池田綱清。
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享保5年(1720年)5月朔日、鳥取城炎上の際に消失。
前田家「切刃貞宗」
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秀吉が晩年に、前田利家邸に臨んだ際に贈ったという。
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文禄3年(1594年)4月8日の「式正御成」の際ではないかと思われる。
この年、利家は1月に従三位に叙位され、さらに4月には景勝・輝元に先んじて権中納言に任ぜられることで宮中序列において逆転する。家康の対抗勢力として利家を利用したい秀吉の意向を反映したものとされる。
利家邸への御成は、文禄2年(1593年)閏9月29日、上記式正御成、同年?月26日、同年10月27日、文禄4年(1595年)3月7日、慶長2年(1597年)4月2日、同年10月22日の計7回行われている。 -
また寛永17年(1640年)3月28日、加賀藩下屋敷に御成になった家光に「切刃貞宗」を献上している。
寛永十七年三月廿八日利常下屋敷山里に御成。
家光様より利常拝領。
一、御腰物 正宗
同日於私宅進上。
一、御腰物 切刃貞宗 利常上之。
以上 -
いつごろか重要美術品認定を受けている。
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昭和46年(1971年)には日本刀剣保存会の松山支部名刀展に出展されている。
福島正則「切刃貞宗」
短刀
無銘
九寸ばかり
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福島正則が所持していた。
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「本阿弥光瑳名物刀記」にも載る。
福島左衛門大夫殿 (福島正則)
切刃貞宗 無銘 九寸はかり -
正則が死去した際に子の正利(正則次男。兄忠勝が早世したため継ぐ)が幕府の許可無く火葬したため咎めを受け、お家取り潰しの危機に陥る。
- 寛永元年7月13日(1624年8月26日)没。
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正利は取りなしを願い、大御所・徳川秀忠に正宗の刀・青木来国次の脇差・木亘肩衝を、将軍・徳川家光に大光忠の刀・大森義光の脇差・あふら茶入を、家光の弟・徳川忠長(駿河大納言)にこの「切匁貞宗」の刀・義光の脇差・修理肩衝をそれぞれ献上している。
但し正則が遺物とてあふらの茶入、大光忠の刀、大森義光の脇差を献じ、大御所(秀忠)にきのめ肩衝、正宗の刀、青江国次の脇差を捧げ、甲府中納言忠長卿にも切刃貞宗の刀、たゝがう吉光の脇差、修理肩衝を進らせしとぞ
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徳川実紀では、短刀(脇差)ではなく「刀」とする。
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寛永2年(1625年)、幕府は正則の功績を考え、正利に父の旧領から3112石を与えて旗本としたが、正利に嗣子は無く福島氏は断絶した。
黒田家伝「切刃貞宗」
脇差
生駒家「切刃貞宗」
脇差
無銘
一尺七分
- 讃岐高松城主生駒正俊所持。
- 高松藩3代藩主。天正14年(1586年)~元和7年(1621年)
紀州家 短刀「切刃貞宗」
短刀
無銘
長一尺七分、反り二分五厘
表裏 梵字蓮華三鈷
「切刃貞宗」
脇差
無銘伝貞宗
長一尺二寸一分、反り三分五厘
- 表は樋の中に素剣、裏は幡鉾の浮かし彫り。片切刃造り。目釘孔3個。
- 佐藤信正氏旧蔵