柏太刀
名刀レスポンシブ1
柏太刀(かしわだち)
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拵
- 総長194.5cm、鞘長143.0cm、柄長51.1cm
- 鞘口長径6.4cm、総長経5.8cm、鐔縦11.8cm
- 横11.5cm、足金具(一ノ足、二ノ足共に)総高8.4cm
- 蛭巻幅鞘1.6cm、柄1.3cm
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刀身
- 長136.6cm、反4.6cm、元幅3.8cm
- 鋒長7.4cm、
元重1.0cm、茎長54.4cm
由来
- 号は、男体山の5月5日端午禅頂の日に奉納されたことから呼ばれたという。
銘
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佩表に施入銘が記されている。□□□は上毛國(上野国)と推定されている。
日光山奉納新宮御寶前□□□小田平塚入道
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この奉納した「平塚入道」については諸説あり判然としない。※後述
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昭和42年(1967年)6月15日重要文化財指定。
- 国指定文化財等データベース
山金造黒漆蛭巻大太刀中身無銘(号 柏太刀) 一口
栃木県 二荒山神社
柏太刀
拵 柄鞘共に薄革張り、黒漆塗とし、山金の蛭巻を施す。鞘に足金物二個をつけ、口から二ノ足先へかけ鍬形状の雨覆を施すも一部欠失。蛭巻は鞘は幅広く、柄はやや幅狭い。頭に猿手を付け、鍔は銀銅木瓜形、四方猪目透で、切羽各二枚を付ける。
刀身 鎬造、庵棟、反り普通、中鋒。表裏棒樋丸止め。茎は細長く、刃上り栗尻、鑢目勝手下り、目釘孔二個。刀身表に「日光山奉納新宮御宝前上野国小田平塚入道」の奉納銘を刻す。地刃は錆身のため不詳。
(略)
柏太刀は鎌倉から南北朝にかけて流行した黒漆太刀に蛭巻を施したもので金具全体は祢々切太刀と同様であり、蛭巻の幅は柄の方を狭く鞘の方を広くし、更に柄と鞘を逆向に巻くなどして変化を見せている。刀身は反が浅く、鋒が延びごころとなって南北朝の典型的な姿をしており、その上、生ぶ刃を残した新身であることも珍らしい。
この(祢々切丸と本刀)二口の太刀は先に重要文化財に指定された瀬登太刀と共に毎年四月十七日に行われる二荒山神社の弥生祭に神前に飾られるものである。
*未指定物件より指定、台帳・指定書番号 工一八七七
- 国指定文化財等データベース
「小田平塚入道」
- この奉納した「(小田)平塚入道」については諸説あり判然としない。
- 親鸞六老僧のひとり了源:
- 常陸真壁の海老ヶ島城主の平塚山城守入道自省:
了源
- 鎌倉時代の浄土真宗の僧で、親鸞の六老僧のひとり。
- 了源は、はじめ平塚入道法求と称したという。
- この了源も出自が明らかではない。後述。
平塚自省
- 戦国末期、常陸の海老ヶ島城主。
- 平塚山城守入道自省
- 永禄7年(1564年)に常陸真壁郡山王堂で行われた野戦「山王堂の戦い」で登場する人物。
- この頃、常陸では小田城の小田氏治と、太田城の佐竹義昭の対立が激化していた。
- 当初両者ともに上杉氏についていたが、北条氏康の誘いにより小田氏が北条方に通じると、佐竹は上杉謙信(当時は上杉輝虎)に援軍を要請する。
- 永禄7年(1564年)4月、謙信は常陸国山王堂に着陣。地元の民に、この辺りで名の知れた武将を尋ねている。その時、海老ヶ島の平塚入道自省と小田四天王の菅谷・飯塚・赤松・手塚の名が挙がったという。
- その後山王堂で野戦が行われ、小田方は上杉軍の勢いに押され小田城に篭ったが、駆けつけた佐竹軍も加わると小田城は落城した。平塚入道自省はこの戦いで討ち取られたという。
了源(りょうげん)
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鎌倉時代の浄土真宗の僧。号は空性。
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親鸞の六老僧のひとり。
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永仁3年(1295年)5月1日生まれ、建武2年(1336年)12月8日没。
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興正寺4世了海の子というが諸説ある。
- 武士(家人の中間とも)の金森弥三郎が出家した。
- はじめ平塚入道法求と称し、相州大掾の高麗三社権現の別当であったという。
- 一説に、曽我十郎祐成の子祐若(すけわか)は、源実朝より平塚の荘を拝領し、河津三郎信之と名乗る。のち出家し、法名を平塚入道法求禅門と名乗ったという。のち了源と改めたという。
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了源は焼失した興正寺を継いで7世となり再興する。後醍醐天皇より寺号を授かり「仏光寺」(真宗佛光寺派総本山)と改めた。
興正寺(興隆正法寺)は建暦二年(1212年)親鸞の開基。あるいは正中元年に山科に堂宇を建立したのが始まりともいう。 -
その後伊賀国の山中で布教中に殺されたという。
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長男の源鸞が8世を継ぐが、その死後了源の妻である了明尼(りょうみょうに)が9世を継いだ。教団の拡大文和元年(1352年)には延暦寺大衆が祇園社(八坂神社)に仏光寺の破却を命じるという事件が起きている。