豊後藤四郎
名刀レスポンシブ1
豊後藤四郎(ぶんごとうしろう)
短刀
銘 吉光
名物 豊後藤四郎
九寸六分
-
享保名物帳所載(ヤケ)
豊後藤四郎 長九寸六分 不知代 御物
多賀豊後守高忠所持、今に醍醐御門主に有之藤戸石を引時大勢にて引ども動す豊後守此脇差を祓て下知せしかば、心安く引る、信長公の御物になり、本能寺にて失る後ち秀忠公の御物になり、品川主馬より大御所へ上る -
詳註刀剣名物帳所載
多賀高忠は前にも記せし足利幕府の職吏なり。「高忠聞書」と第する弓馬の書あり。最も弓馬の術に長し幕府の故事有職に明らかなる人なるを以て、此人の持たる短刀に名物となりし物、包丁藤四郎あり。この豊後藤四郎あり。醍醐の藤戸石と云は、醍醐寺の庭を造る時、白川の廃園にありし藤戸石と云大石を引ことあり。此庭造の事高忠の意匠より出たれば、自ら運搬の事を指揮したるなり。短刀打振て人夫を勇まし木遣りなど歌ひしなるべし。高忠室町御所にて戰死の後ち、信長の物となり天正十年本能寺に事ありし時紛失して、其のち秀忠の手に入り之を品川主馬に賜ふ。主馬より家康へ献りしと云ふなり。品川主馬は今川氏真の二男幼名新太郎と云し人にて、のち別家して品川と稱す。幕府の時の高家なり。
- ※便宜のため句読点を追加した
- ※便宜のため句読点を追加した
-
平造り、行の棟。刃紋は直刃で鋩子は乱れこんで尖り返りはやや深いとも、刃紋は乱れ刃で鋩子は小丸ともいう。
-
中心はうぶ、切り鑢、目釘孔1個、銘「吉光」の二字銘。
由来
来歴
信長
-
信長に伝わる。
貞享3年(1686年)秋に、本阿弥家から高忠子孫の旗本多賀新左衛門に照会した所、昔のことなので定かではないが、高忠曾孫の多賀信濃守貞能(-1587)のときに足利将軍へ献上したものという。その後義昭から信長に下賜されたとみられる。 -
これとは別に、高忠から諸所を転々とした後に、高家品川家の祖、今川氏真から信長に献上したとも伝わる。
-
本能寺の変後行方がわからなくなっていた。
本能寺ニテ失ワル
秀吉
-
「文禄三年押形」に中心の図を描き、千貫と書かれている。
-
また「本阿弥光徳刀絵図」にも全身図が出ていることから、秀吉の所蔵刀であったことがわかる。
秀忠
-
後に秀忠の所持するところとなる。
-
元和3年(1617年)調べの刀剣台帳では第一番に記載され、一之箱に保管されていた。
-
「本阿弥光柴押形」では「将軍様ニ有之 多賀豊後守殿所持ニヨリ豊後藤四郎ト号」となっており、この頃には将軍家所蔵。
-
本阿弥光甫はこれを「天下第一のぶんご藤四郎」と読んでおり、秀忠は数ある藤四郎の内、これを最高とした。
-
寛永9年(1632年)正月23日、秀忠は臨終に臨み将軍家光に不動国行の太刀、江雪左文字の太刀、宗三左文字(義元左文字)の刀とともにこの豊後藤四郎を贈っている。
廿三日西城にて大御所(秀忠)御危篤にわたらせ給ふ。不動國行の御太刀。江雪正宗の御太刀。三好宗三左文字の御刀を本城(家光)にゆづらせ給ふ。これ神祖關原。大坂の兩陣に帶し給ふ所なり。豐後藤四郎の御さしぞへ。奈良柴といふ茶入。捨子と名付し茶壺。圓悟の墨跡も同じく御讓與あり。
家康
-
品川主馬は品川高久のことだと言い、秀忠より本刀を与えられたのだという。
天正4年(1576年)生まれ、母は早川殿(北条氏康女)。同母兄に今川範以がいる。
慶長3年(1598年)に秀忠にお目見えし、「物加波」という馬を下賜されたという。慶長6年(1601年)に上野国碓氷郡内において1000石を与えられる。当初は「今川」姓を称していたが、「今川姓は範忠の子孫かつ嫡家に限り、分家庶家は今川姓を許されない(天下一苗字)」という由緒を重んじた秀忠の意向により、別家である高久は江戸の屋敷地の地名にちなんで苗字を「品川」に改めたという。寛永16年(1639年)死去、享年64。
「幼名新太郎」とするが、寛政重脩諸家譜では「新六郎」としている。同書では、その息子・高如(たかゆき、内膳。従四位下・式部大輔、従四位上・侍従)が幼名新太郎であるとしている。 -
しかしその後寛永9年(1632年)の秀忠臨終時には、将軍家光に豊後藤四郎を贈っている。ということは家康薨去後には将軍家に戻されたということになる。いつ頃秀忠が(初回に)入手したのかは不明だが、元和3年(1617年)調べの刀剣台帳で記載があることを考えると、秀忠より拝領後かなり早くに家康に渡り、薨去後すぐに秀忠に戻った可能性が高そうだ。
明暦の大火
-
その後明暦の大火で焼けてしまう。
-
享保2年(1717年)、近江守継平が写した「継平押形」では刃紋が描かれているが、これは古い押形を見て模写したものとされる。
豊後藤四郎 九寸六分 多賀豊後守元所持
-
享保名物帳でも焼失の部所載。