名刀幻想辞典

村雨

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村雨(むらさめ)

八犬伝を代表する名刀
村雨丸、叢雨丸
鞘から抜くと刀身に露が浮かぶ奇瑞があり、このことから「抜けば玉散る氷の刃」と言われる。

  • 曲亭馬琴(滝沢馬琴とも呼ばれる)作の「南総里見八犬伝」に登場する架空の刀で、八犬伝前半の主人公犬塚信乃が所持している。

  • 曰く「ひとたび鞘から抜けば刀が露を帯び、人を斬れば村雨のごとく水が滴たたり、刃に血のりがつくことがなかった」という。

    殺氣を含て拔はなせば、刀の中心なかごに露したゝる。ましてや人をるときは、したゝりますゝ流すがごとく、鮮血ちしほを洗ふて刄を染ず。たとひばかの村雨の葉ずゑを洗ふに異ならずとて、村雨と名づけらる。

    村雨(むらさめ)とは、強く降ってすぐ止む雨。にわか雨のことを言う。
  • なお抜き放っただけでも水気が立ち上っている描写もある。

    かゝりし程に左母二郎は、しめしあはせし事なれば、船の流るゝを幸ひにして、河下へ赴きつゝ、ひそかに信乃が副刀さしぞひ𩋇釘めくぎを拔とり、又蟇六が副刀の𩋇釘を外し、ひとつゝに拔放ぬきはなちて、此彼これかれを引替つゝ、𩋡さやに納んとする程に、怪しむべし、信乃が刀の中刄より、水氣すいき忽然と立冲たちのぼりて、夏なほ寒き袖袂、膝も露けき稀世の名刀、毛骨みのけいよ疎可たつばかりなれば、左母二郎大きに驚き、「傳へ聞、もとの鎌倉管領持氏朝臣の重寶に、村雨と名づけられたる一こしあり。一たびこれを拔放せば、忽然として水氣立、殺氣を含てうち振れば、刀尖きつさきより濆飛ほとばしる、その水さながら村雨の木杪こづゑを洗ふごとくなれば、村雨といふとなん。しかるに今この信乃が刀、彼村雨と相似たり。かゝればこの靈刀れいたう、初は蟇六が重寶なるを、故ありて信乃に與し、といひつるは偽にて、一旦結城に楯籠りし、信乃が親番作が、春王・安王兩公達より、預りし物にして、彼村雨の寶刀なるべし。これをわが故主、扇谷殿へたてまつらば、卽歸參のよすがとならん。また人に賣與うりあたへば、その價千金ならん。

来歴

  • 初代鎌倉公方である足利基氏(足利尊氏の子)以来の家宝として、基氏、満氏、満兼、持氏と鎌倉公方家に伝わる。

  • 鎌倉公方四代持氏は、永享の乱(永享10年、1438年)で京の足利公方家義教に対して反乱を起こし、翌年には関東管領上杉憲実により息子義久とともに滅ぼされる。

  • 持氏の子である春王丸、安王丸を引き取った結城氏朝も、永享12年(1440年)の結城合戦で同様に滅ぼされる。

  • 村雨丸は持氏二男・春王丸に伝わっていたが、春王丸近習であった大塚匠作三戍が息子の番作に預け処刑場で討ち死にした。

    後土御門天皇てんわうの御宇、常徳院足利義尚公、將軍たりし、寛正・文明のころかとよ、武藏國豐島郡、菅菰大塚すがもおほつか郷界さとはずれに、大塚番作一戍かずもりといふ武士の浪人ありけり。そが父匠作三戍みつもりは、鎌倉の管領、足利義持の近習たり。永享十一年、持氏滅亡のとき、匠作は精悍かひゝしく、忠義ちうぎの近臣と相謀りて、持氏のおん子、春王しゅんわう安王やすわう兩公達を護奉もりたてまつり、鎌倉を脱去のがれさりて、下野國に赴き結城氏朝に請待せうだいせられて、主従その城に盾籠もり、寄手の大軍を引うけて、防戰年を重ぬといへども、士卒の心一致して、たゆむ氣色はなかりしに、嘉吉元年四月十六日、巖木五郎いはきのごらう反忠かへりちうより、思ひかけなく攻破られて、大將氏朝父子はさらなり、躬方みかたの諸將、恩顧の士卒、面もふらず衝て出、奮撃突戰時をうつして、ひとりも遺らず討死し、兩公達は生拘いけどらる。このとき大塚匠作は、今玆十六歳なりける、一子番作一戍を招きよせて、息つきあへずいひけるやう、「よるとし波の老が身に、生死の海は思ひかけず、百年千歳の後までもと、護册もりかしづきし兩公達、御運つたなくましまして、防戰遂に合期がつこせず、諸將撃れて城墎陥り、君辱められ給ふになん。臣たるものゝ死すべき時なり。さりとて汝は游悴へやずみなり。まだ仕ざる身にしあれば、こゝにて狗死いぬじにすべきにあらず。さきに鎌倉を落しとき、汝が母と姉亀篠かめざさは、はつかなる由縁を求て、武藏國豐島なる、大塚に潜せおきつ、(略)是はこれ、主君重代のおん佩刀、村雨むらさめと名つけらる。このおん佩刀はかせのうへに就てさまゝの奇特多かる中に、殺氣を含て拔はなせば、刀の中心なかごに露したゝる。ましてや人をるときは、したゝりますゝ流すがごとく、鮮血ちしほを洗ふて刄を染ず。たとひばかの村雨の葉ずゑを洗ふに異ならずとて、村雨と名づけらる。實に源家の重寶なれば、先君(持氏をいふ)いとはやくより、春王君に譲らせ給ひて、護身刀まもりかたなにせられたり。孺君わかぎみとらはれ給へども、今おん佩刀はかせはわが手にあり。われもし本意ほゐ得遂えとげずして、主從命を其處に隕さば、このおん佩刀も敵にとられん。さではいとゝ遺恨なるべし。よりて汝にあづくるかし。孺君わかぎみ必死をまぬがれ給ひて、ふたゝび世にも發迹なりいで給はゞ、一番にはせ參りて、寶刀みたちを返しまゐらせよ。もし又撃れ給ひなば、これはた君父くんぷ像見かたみなり。これを主君と見たてまつりて、おん菩提を弔奉とひたてまつれ。努々ゆめゝ疎略すべからず。こゝろ得たりや。」ととき示し、錦のふくろに納たる儘、腰に帯たる村雨の刀寶みたちをわが子に遞與わたしけり。

  • この時、大塚番作一戍は「村雨丸」を息子・信乃(犬塚に改名)に託し、春王丸・安王丸兄弟の弟である足利成氏(万寿王丸。5代鎌倉公方、後の古河公方)に献上して仕えるよう言い渡し、ここからストーリーが大きく展開する。

村雨の名を持つ実在刀

村雨
太刀 銘「村雨 津田越前守助広/延宝六年二月日」、刃長2尺7寸4分、反り1寸3分9厘。倶利伽羅龍と梵字を彫る。
大坂城代であった青山因幡守宗俊が、津田越前守助広に打たせた太刀。延宝6年(1678年)作であり、いわゆる丸津田銘となっている。目釘孔一個。
青山因幡守の求めに応じて鍛えた物で助広の傑作とされる。家臣にも見せることはなかったが、日照りが続き雨乞いをする際に取出してみせたという。
特別重要刀剣指定で、黒呂色塗鞘赤銅唐草文総覆輪兵庫鎖太刀拵と、明治24年(1891年)の明治政府による鑑査状が付属する。
叢雨
叢雨は村雨。庄司次郎直勝(藤原直勝)作の刀で、銘は「叢雨 勝喜名 実庵書(印)/家翁親父鯨井君勝喜視余猶子曽蒙勉励故今作一刀謝高誼之万一云 直勝」と切られている。
藤原直勝は大慶直胤の門人のひとりで、のち女婿となり養子となった。上野館林の秋元家に召し抱えられている。
「叢雨」の命名は藤原直勝の親友であった長者町の鯨井市右衛門勝喜であり、それを実庵こと小川実蔵成信が隷書で下書きしたものを銘に切っている。

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