名刀幻想辞典

平維茂

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平維茂(たいらのこれもち)

平安時代中期の武将
陸奥守平繁盛の子で伯父の平貞盛の養子となった
鎮守府将軍、信濃守従五上
余五将軍
鬼女紅葉伝説が能の演目「紅葉狩」などで伝わる

概要

  • 平繁盛の子として生まれ、平国香(良望)の嫡男で叔父にあたる貞盛(あるいは兼忠)の養子となった。
    藤原村雄藤原秀郷
        村雄娘
          
    高望王─┬平国香─┬平貞盛─┬平維叙(藤原済時の子で養子)
                平維将平直方(北条氏・熊谷氏)
                平維敏
                平維衡(伊勢平氏の祖、平清盛など)
            
            平繁盛─┬平兼忠──平維良
                 平維茂─┬繁貞(奥山氏)阿仏尼
                      繁茂(秋田城介、城氏)
        平良将──平将門
        
        平良文─┬平忠頼(千葉氏、上総氏、秩父氏、河越氏、江戸氏、渋谷氏)
             平忠光(梶原氏、長江氏、鎌倉氏)
    • 藤原村雄は藤原北家魚名流。
    • 高望王は桓武天皇の孫(もしくは曾孫)にあたり、高望王流桓武平氏の祖
      なお今昔物語集では、維茂は平貞盛の弟陸奥守平繁盛の孫で上総介平兼忠の子とされている。
      また維茂は、平兼忠の子で大掾維良と呼ばれた平維良と同一人物と見る説もある。古記録(小右記、御堂関白記他)では平維良としてのみ登場し、同一人物と見られる平維茂は主に系図類及び説話資料で登場する(城長茂を扱う吾妻鏡でも、「鎮守府将軍惟茂」とする)。
       平維良は、長保3年(1001年)に下総国府を焼き討ちして官物を略奪したかどにより押領使・藤原惟風の追補を受け、越後国に逃亡するが、のち財力により鎮守府将軍に任官されている。さらに長和3年(1014年)、鎮守府将軍の重任を得るために藤原道長に馬20疋他豪華な貢ぎ物を行い、門前にはこれを見ようとする見物人が列をなしたという。ただし平維良は治安2年(1022年)死去。

「余五将軍」

  • 養父・貞盛には養子が多く、子としては15番目だったことから維茂は余五(十あまりの五)君、さらに後に鎮守府将軍となったため、「余五将軍」と呼ばれる。

    鎮守府将軍、或非将軍云々、信濃守従五上、帯刀奥山城鬼才流、世人号余五将軍
    (尊卑文脈)

    十一男(十あまり一)であった那須与一などと同様の名前。余りの後ろに数詞が付く場合は、余剰という意味ではなく加えるという意味合いになる。

経歴

※下記は、維茂=維良説に従い、両者の逸話を含む。
  • 上京して従五位上・下野守に叙任される
  • 長徳2年(996年)ごろ、右大臣藤原顕光の家人となり、堀川院第を造進することで累進の機会を得た。
  • 長徳4年(998年)、伊勢国内で散位平致頼と争い、淡路へと配流されてしまう。
  • ほどなく都に召還され、寛弘3年(1006年)2月には右大臣藤原顕光の引級により伊勢守に転じた。
  • しかし左大臣藤原道長が反対したために1ヶ月も立たないうちに解任され、代わりに上野介に任じられる。
  • この頃から道長への接近を図り、家人となっている。
  • 備前守、常陸介を歴任。長元4年(1031年)ごろには四品の位階となっていた。
  • 伊勢で地盤を拡大し、長子正度・嫡孫正衡の系統から清盛を輩出し、伊勢平氏の栄華の礎を築いた。

母子丸(ぼこまる)

  • 平維茂の佩刀。

  • 平維茂の8代孫城長茂(平長茂)は、文治(1185)ごろの人で、父は城資国、兄は城資永、妹に坂額御前がいる。

  • 生まれるとすぐに行方不明になる。4年後に狐塚で発見され連れて帰ってくると、狐が老翁に化け刀や櫛を長茂に与えたという。

  • 「慕狐(ぼこ)」あるいは「ははこ」からの転化ではないかとされる。

  • この刀は坂額御前の頃まで伝わっていたようだが、挙兵した際に失われたとされる。

    建仁元年
    一夕以夢得之於狐冢、攜歸于家、狐化老翁來授刀及袖櫛于繁茂、世傳其刀、及資盛敗、遂失所在、
    建仁元年五月十四日
    資盛之姨母之號之坂額之御前、雖爲女之身、百發百中之藝殆越父兄也、人擧所謂奇特、此合戦之日、殊施兵略、如童形令上髪、奢腹巻居矢倉之上、射襲到之輩、中之者莫不死、西念郎従又多以爲之被誅、于時信濃國住人藤澤次郎(四郎)清親廻城後山、自高所能窺見之發矢、其矢射通件女左右股、即倒之處、清親郎等生虜、疵及平愈者、可召進之、姨母被疵之後、資盛敗北、出羽城介繁成資盛曩祖、自野干之手所相傳之刀、今度合戦之刻紛失云々

鬼女紅葉伝説紅葉伝説

  • 平維茂が勅命を受け戸隠山で鬼女を退治する物語。

平維茂の子孫

嫡男繁貞

  • 平維茂の長男繁貞は越後において勢力を得、その子孫は奥山を名字とし京都で検非違使となるなど、朝廷に仕える武士として続いた。子孫には奥山度繁や、その娘の阿仏尼がいる。

阿仏尼(あぶつに)

  • 平維茂の長男である平繁貞の子孫である奥山度繁の娘(または養女)。
  • 阿仏尼は鎌倉中期の女流歌人で、「十六夜日記」を著した。
  • 藤原為家の側室となり、冷泉為相らを産んだ。
  • 藤原為家は御子左家嫡流だが、為家の没後に播磨国細川荘の相続をめぐり、正妻(宇都宮頼綱の娘)の子・二条為氏と側室(阿仏尼)の子・冷泉為相が争い、阿仏尼は1279年(弘安2年)幕府に訴えるため鎌倉へ下った。このときの紀行と鎌倉滞在のことを記したのが「十六夜日記」である。
    当初日記には名がなかったが、日記が弘安2年(1279年)10月16日に始まっていることを由来として後世名付けられた。

    むかし、かべのなかよりもとめ出でたりけむふみの名をば、今の世の人の子は、夢ばかりも身のうへの事とは知らざりけりな。
    (中略)
    惜しからぬ身ひとつは、やすく思ひすつれども子を思ふ心のやみはなほ忍びかたく、道をかへりみるうらみはやらむかたなく、さてもなほあづまの龜のかゞみにうつさば、くもらぬ影もやあらはるゝと、せめておもひあまりて、よろづのはゞかりを忘れ、身をやうなきものになしはてゝ、ゆくりもなく、いざよふ月にさそはれ出でなむとぞ思ひなりぬる。

二条流

  • この後和歌の御子左家は二条流(二条家)と冷泉流(冷泉家)に分かれた。しかし二条家と庶子の京極家(二条為氏の庶弟京極為教とその子為兼に始まる)は南北朝までに断絶し、二条流は二条為世の弟子であった頓阿を通じて、東常縁や三条西家に伝わる(古今伝授)。
  • さらに後、三条西実枝から伝授を受けた細川幽斎が田辺城に囲まれた時、古今伝授が絶えることを惜しむ後陽成帝の勅使により田辺城は開城し、その時勅使に贈られた太刀が「古今伝授の太刀」である。

秋田城介

  • 三男・繁茂の子孫は秋田城介(国司)として越後国に土着し(城氏)、繁貞の子孫に代わって越後で繁栄した。名物「鶴丸国永」は、平維茂からこの秋田城介(三男繁茂の家系)に伝わったとされる。

平維茂─繁成─貞成─永基─城資国(城九郎)─┬城資長(検非違使、義仲追討)
                      ├城資職
                      ├城長茂
                      ├城資永───資盛
                      └坂額御前
※詳細不明。

坂額御前(はんがくごぜん)

  • 平維茂の三男繁茂の家系。

  • 城長茂は、建仁元年(1201年)叛乱を企てて建仁の乱を起こし、長茂は京において幕府軍に討伐される。

  • これと呼応する形で越後国において長茂の甥(資永の遺児)である城小太郎資盛とその叔母(資永・長茂の妹)坂額御前が挙兵し最終的には佐々木盛綱率いる幕府軍によって鎮圧される。

  • 坂額は鎌倉に送られ将軍頼家の面前に引き据えられるが、その際全く臆した様子がなく、この態度に深く感銘を受けた甲斐源氏の浅利義遠が頼家に申請して彼女を妻として貰い受けることを許諾される。坂額は義遠の妻として甲斐国に移り住み、同地において死去したと伝えられている。

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