香の前
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香の前(こうのまえ)
戦国時代の女性
生涯
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天正5年(1577年)に高田次郎右衛門の長女として生まれる。名前は種。
父の次郎右衛門については不詳であるが、牢人となって伏見に居住していたという。 -
成長した種は、その美貌から後に秀吉に見初められ愛妾の一人となり、香の前(香姫)と名付けられた。特に仙台では「秀吉十六愛姫」の一人と伝わった。
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のち秀吉から伊達政宗に下げ渡され、政宗との間に慶長3年(1598年)に津多(女子)、慶長5年(1600年)に又治郎(男子)を産むが、慶長7年(1602年)に政宗の重臣・茂庭綱元に下げ渡されてその側室となり、2人の子と共に綱元の屋敷へと移った。
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茂庭綱元は、父・左月斎良直が政宗の重臣として遠藤基信と共に輝宗政権の中核を成し、その子の綱元も重臣として重用された。朝鮮出兵の際に肥前名護屋城の留守居役として秀吉に気に入られた人物である。
茂庭綱元の姉が片倉景綱を産んだ片倉喜多であり、伊達政宗の乳母となっている。 -
香の前が、秀吉の愛妾から茂庭綱元の側室となった経緯には諸説あり、これに関連して文禄4年(1595年)に政宗が茂庭綱元を疑い隠居に追い込み、結果的に茂庭綱元は出奔する事態となった。しかし2年後の慶長2年(1597年)には赦免されて伊達家に復帰している。
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彼女が大切にしたものが秀吉から贈られたであろう懐剣、雛人形、そして十二の手筥、ルソンの壺(清香壺)などが亘理家に残っていた。うち十二の手筥は終戦直後まで亘理家に伝わっていたが、のち個人所蔵。
元々「十二の手筥」というのは、高貴な夫人が所有していた化粧道具であり、毛だれ箱、元結箱、揑墨、香匣、櫛箱、香具匣、折鏡立、櫛入、白粉とき、油桶、鬢水入、化粧水入などを含むという。 -
十二の手筥は、昭和18年(1943年)に鑑定を依頼された桑田忠親氏のもとに持ち込まれ、同氏はその経緯を「豊太閤側室お種殿所用十二の手筥」として宝雲舎の『古美術』昭和19年(1944年)2月号に掲載している。すべて金梨地に金蒔絵を施した桃山工芸美術の逸品である。
- 銀の小鏡の付いた唐草蒔絵の鏡台:「天下一富多」の背銘がある。
これには引き出しがあり、櫛箱、白粉筆、鉄漿椀、臙脂皿、白粉ときなどが入れられている。 - 蒔絵の耳盥:烏瓜に蔦をあしらった文様が入る。みみだらい
- 毛だれ箱:
- 元結箱:
- 香箱:
- 櫛箱:
- 折鏡立:
- 櫛入:
- 揑墨:かきずみ
- 白粉とき:
- 油桶:
- 鬢水入:びんすいいれ
- 化粧水入:
- 白粉筆:
- 鉄漿椀:かねわん
- 臙脂皿:えんじざら
- 銀の小鏡の付いた唐草蒔絵の鏡台:「天下一富多」の背銘がある。
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伊達政宗が晩年、香の前に送った手紙が佐沼亘理家に残されている。原文は仮名交じり文で読みづらいため、漢字に置き換えた文章を引用する。
今年、江戸へ登る前に了庵(※茂庭綱元)に足目(不足分)として、愛子(現、仙台市青葉区愛子)に二十五貫文(二百五十石)の知行を遣わしたが、それはそなたの所有とせよ。了庵からの沢山の書状を見た。申し分は余儀ないが、国分、名取は仙台近くであるし、自分は隠居も近い身であり越前(※仙台二代藩主忠宗)のためとはいえ、思うようにならない。大崎(※宮城県中北部)は仙台へ近く、また年貢米が必ず出る所で、殊の外得な所だ。それで大した用をいいつけて使わない者たちの知行も沢山ある(中略)、越前(※忠宗)の方も協うようにと心掛けているが、今年は手配出来ないので、来年は何としても都合をつける。了庵にも近くで良い所をやろう。右近(※亘理右近宗根)に今遣る土地はどうしてもないから、まず不足のところだが、知行加増の証拠となる書附を書いてやるから、来年には大崎のうちで右近にも了庵にもやろう。これはわしからもいうてやる。即ちこの手紙を了庵の方へやって見せておくがいい。城の周囲では思うままにならぬ、此前から取って居た者どもは仕方がない、今頃、隠居近くに差出がましくするのは、越前(※忠宗)にも親子の中でも迷惑である。もはや今年も十月でもあるから、来年といっても、あと少しだ、こうした訳をよく考えるように
くはんゑい二ねん
十月一日 政宗(花押) -
香の前は晩年を息子(亘理宗根)のもとで過ごし、寛永17年(1641年)12月2日死去。享年64。※政宗は寛永13年(1636年)没
- 法名は安楽院浄挙心清法爾大姉。高清水亘理家の墓地に葬った。十七回忌の年と見られる明暦2年(1656年)に、上野小山の廃寺を高清水に移して復興し、のち佐沼へと移している。これが佐沼の安楽寺である。元の地には福現寺(宮城県栗原市高清水中町38)がある。
系譜
原田宗資 茂庭綱元 ├──原田宗輔(原田甲斐) │ ┌津多 香の前 │ 【佐沼(高清水)亘理氏】 ├────┴亘理宗根 ┌亘理宗広──亘理宗喬 │ ├───┤ │亘理重宗─┬娘 └各務利静 │ └亘理定宗┬伊達宗実 │ └伊達宗重(伊達安芸、涌谷伊達氏2代) 伊達政宗
津多
- 香の前は2人の子を産み、そのうち女子であった津多が柴田郡船岡城主・原田宗資に嫁ぎ、嫡男の宗輔を産んでいる。この宗輔が「牛王吉光」を所持した原田甲斐である。
亘理宗根(わたり むねもと)
- また男子のほうは又次郎と名付けられた。慶長12年(1607年)8歳の時、はじめて伊達政宗に謁見を許されている。
- 13歳で元服し、宗の一字を拝領し、宗根と名乗った。亘理氏18代当主・亘理重宗の末娘の婿に迎えられている。のち亘理宗根は高清水城主となり、高清水亘理氏(のちの佐沼亘理氏)初代当主となった。亘理氏19代は重宗の嫡男定宗(伊達定宗)が継いでいる。政宗の庶子にあたる宗根が亘理氏の名跡を継ぐことになったため、この涌谷城主の家系はのち政宗から「竹雀紋」および「竪三引両紋」を下賜されて伊達氏を名乗ることが許され、仙台藩一門第四席・涌谷伊達氏初代当主となっている。当主は代々伊達安芸を通称とし、涌谷伊達氏2代を継いだ伊達宗重が、伊達騒動で「伊達安芸」として登場する人物である。